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第2章 全米ツアー

第10期 ロサンゼルス時代(1987年編)

生活空間としてのUSA

 全米50州を回っていると、行く先々でどの州が1番良かったか。あるいはどの都市が1番良かったかと質問される。50州を回り終えた今、カリフォルニア州ロサンゼルスと答える。

青空とヘルメット

世界最大のヨットハーバー・マリーナデルレイ。
ロサンゼルスは雨が少ないので過ごしやすい。
(カルフォルニア州 12月)

 住めば都と言うけれど、1番長く滞在したLAが1番お気に入りの都市。
 10月から3月までの長期滞在以外にも、1987年の6・7月、9・10月、1988年5月と全米ツアーの拠点はLAだった。四季の移ろいを見たこともあり、LAは私にとって生活空間としてのUSAと言っても良いだろう。日本との違いを考える時でも、LAでの生活が基準になっている。すなわち、完全な車社会と他人を信用しない都市生活。
 5ヵ月に及ぶLA時代はまさに生活だった。マイク・ヨコハマの名前でアパートを借り、共同で電話も付けた。アスレチック・ジムで体を鍛え、夜は英語学校へ通う。生活費は倉庫番やウエーターのアルバイトで稼いだ。贅沢はできないが、ビールを飲んだり、週末にディズニーランドへ行くことくらいは可能だった。
 いろいろな友達もでき、多くの思い出を作ることができた。中でも1番の思い出は、ロサンゼルスマラソンに出場したことだ。日本国内では市民マラソン(フルマラソン)がほとんどないがLAでは手軽な市民スポーツとなっている。5kmや10kmでマラソンと堂々と銘打っている日本と違い、本当のマラソン=42.195kmを体験できた。今やトライアスロンがメジャーになってきたので、フルマラソンもかすみがち。
 実際にLAで生活してみて驚いたのは、あまりの交通渋滞と寒さ。12月の冷え込みといったらライダーの身にこたえた。クーラーなしの家庭は珍しくないが、ストーブなしの家は無い。


クラス3(自動二輪)合格

1987年10月31日(土)雨


 街はハローウィンだというのに、LAに近づくにつれて雨が本格的になってきた。NYから帰って来た時も雨の歓迎を受けたし、雨の少ないLAとは思えない。
 大渋滞のフリーウェーを切り抜け、ウエストLAのジュンのアパートへ着くと温かく迎えてくれた。LAでの生活は楽しいものになりそうだ。

 11月1日(日)雨のち晴れ

 昼過ぎ、ジュンが通っているホリディ・スパ・ヘルスクラブへ入会した。
 入会の際に必要なのはドライバーズ・ライセンスとクレジット・カード。ちなみに入会金は30ドルで月会費が27ドル75セント。ここのヘルスクラブは中流であらゆる人種が通っていた。男女別マシンルーム、上級者用マシンルーム、ラケットボール、エアロビックスタジオ、プール、スパ、サウナが完備され、とてもグッドな所だが不慣れのため、私の居場所が無い。


 11月2日(月)曇りのち晴れ


 前回は試験場側のミスでクラス3(自動二輪)を取り損ねたので、あらためて10ドル払って試験を受けた。ペーパーテスト、シグナルテストも合格。
 ダウンタウンの羅府新報本社へ行き、家庭教師致しますの広告と定期購読の手続きをとった。アメリカの新聞は料金が安いが、羅府新報のような民族系のものは特に安い。3カ月の定期購読がたったの13ドル50セント。信じられない安さで毎日、日本語が読める。

 11月3日(火)晴れ


 実地試験は予約しないで、キャンセル待ちに並んだ。朝早く行けば、たいていキャンセルが入る。
 クラス3の試験は、名前を確認した後、いきなりDMVの外周を回り、裏手の二輪車テストゲージに行くように指示される。テニスコートくらいのゲージの中に線が引いてある。簡単な車両チェック(ウインカー、ホーン等)のあと8の字運転を2,3回やって、それで合格。
 試験車は当然乗って行ったシャドー1100。どんなモーターサイクルで受験してもかまわない。そして中型限定などという無粋なものは無い。


倉庫番

 LAに帰ってきてまだ4日目だというのに、倉庫番のアルバイトが見つかった。居候先のジュンの紹介で空港近くの日系の運輸会社で働くことになった。仕事は倉庫内の整理、商品のこん包、トラックとの受け渡しで、語学力は大して必要ではない。少々ほこりっぽいのを除けば、マイペースでする仕事なので楽な部類に入るだろう。
 時給8ドルと交通費5ドルという好待遇。正社員が腰を痛めた代わりでとりあえず1週間やることになった。

1987年11月4日(水)曇り


 昼から5時間ほど、倉庫番として働く。
 夜になって羅府新報の記者から電話連絡があった。私の持ち込んだアラスカ・ツアーの原稿と写真が気に入られ、連載することになった。


 11月5日(木)曇りのち雨


 昼から5時間ほど、倉庫番。
 砂漠地帯の雨季なのかもしれないが、よく雨が降る。10月の下旬はもっとひどく、死人がでたそうだ。東京で雪が降ると急に事故が増えるが、LAでは雨が降っただけでスリップ事故になる。ブレーキのかけ方を知らないようだ。


 11月6日(金)晴れ

 午前中、羅府新報でアラスカ・ツアーの打ち合わせ。読者対象や用語、字数などを決める。
 午後から倉庫番をして、4日分165ドルを現金でもらった。闇の仕事なので税金などはとられない。


 11月7日(土)晴れ


 徹夜でアラスカ・ツアーを原稿用紙に書き連ねた。少し寝ては、また書くという感じでどんどん進めた。


 11月8日(日)晴れ


 どんどん書き進め、夜中までに、全10回約10,000字を書き上げた。下書きがあったとはいえ、かなりのスピードだ。

 11月9日(月)晴れ


 写真を選び、キャプションとトリミング指定をつけて原稿を届けると、担当者はあまりの速さに目を丸くしていた。
 倉庫番の仕事は先週で終わってしまったので、新しい職を探さなければならない。羅府新報の求人欄を見るのは日課のひとつだ。
 ほぼ、1日おきにヘルスクラブに通っているが、体重は125ポンド前後で安定している。


ウエーターの制服


1987年11月10日(火)晴れ


 求人のでていたアスア・レストランへ面接へ出掛けた。オーナーは中国人だが、マネージャー以下ほとんどは日本人の日本食料理屋だ。バンクーバーの経験からチップのもらえる職を探していた。チップの方が社長からもらう給料より多いのだから。
 イミグレーションの取り締まりが厳しくなり、私のような不法労働者を一切雇わない店も多いが、アスカ・レストランは日本人ならなんでもOKという感じだった。
 ただし、税務署に納税するために、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーを収得するように言われた。この番号は脱税防止などの目的で成人がそれぞれに持っている。労働許可ではないが、この番号があると実質的には働ける。そして、この番号はソーシャル・セキュリティ・オフィスへ行って、手続きさえすれば、外国人でも簡単にとれる。その時、取得目的は銀行口座を開くと言えば良い。オフィスへ行くと、すぐに手続きが終わった。


 11月11日(水)晴れ

 実際にどんな仕事をするのか見学に行った。私はランチタイムのウエーターとして、11時から3時まで働くことになっている。仕事はワイシャツに蝶ネクタイ、黒のスラックスと黒の靴で自分で買うように言われた。


 11月12日(木)晴れ


 ウエーターの制服を買うために、メーンストリートとフィフス・ストリート辺りのメキシカン系の洋服店へ出掛けた。店内の商品は格安で、浅草のようなのり。店員は黒人かメキシカンですぐに声を掛けてくる。スラックス・ワイシャツ、蝶ネクタイでしめて34ドル55セント(税込み)。
 ただ、シャドー1100を止めた所まで15分程、フィフス・ストリートを歩いたわけだが、黒人を中心にホームレスが多く。はっきり言って怖い。LAはリトル東京の南側のフォース、フィフス、シックス辺りはホームレスのたまり場になっており、教会の給食場に長い列をなし無気味な所だ。もっとも、NYはマンハッタン島全体がそんな感じだ。


ジミー・クリフ

1987年11月13日(金)曇り

 アスカ・レストランのランチタイムで働くが、トレーニングということでチップはまだもらえない。アメリカ人客がほとんどなので、すべて英語で話さなければならない。


 11月14日(土)曇り一時雨

 一日中アパートにいた。


 11月15日(日)晴れ

 レゲエ・ミュージックの元祖ジミー・クリフのコンサートへ行った。アメリカで見た本格的コンサートは後にも先にもこれ1本だけ。
 場所は、ウエスタン・ブルバードとウイルシャー・ブルバードのコーナーにあるウイルトン・シアター。英語にも駄洒落があることを初めて知った。ホールは2階席もありかなり広い。内装はクラシック調で豪華。驚いたのはスタッフが多いこと。入り口のボディ・チェックから客席の案内係まで蝶ネクタイとベストでビシッと決めてきびきびと働いている。おかげで、ウオークマンは、一時預かられてしまった。
 客はほとんどが白人でティーンエイジの女の子も多い。ロビーでは酒を販売しているので客のノリもすごい。
 前座が終わり、ゆっくりと幕が上がると客席が総立ちになった。後方の席だったが、1番前まで歩いて行き、係員に戻されたりした。演奏は滞りなく進み、くねくねとした独特のダンスもさえていた。彼を見て、世の中にはうまいやつとすごいやつがいることを実感した。本物の持つすごさというものを。


 11月16日(月)曇り

 アスカ・レストランに加えて、倉庫番の仕事も復活した。
 日曜日にヤオハンで運輸会社の人にばったり会い、また頼まれたのだ。
 LAといえども日系社会は狭いもので、日曜日のヤオハンなどへ行くと必ず誰か知っている人に出会う程だ。ヤオハンの掲示板や新聞に家庭教師しますの広告を出しているが反応が鈍い。夜は家庭教師で稼ごうとあけてあるのにどうしようもない。


山海塾 at UCLA


1987年11月17日(火)曇り時々雨


 アスカ・レストランと倉庫番を片付け、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)へ急いだ。夜8時から、山海塾のステージがあるのだ。日本でも人気が少しでてきた暗黒舞踏のスーパーグループ山海塾は欧米では大変な人気で、ロサンゼルスタイムでも大きく取り扱われている。
 白塗りの全裸に近い5人の男達の不気味な動きと表情。そして、ラストの逆さづり。正直言って理解に苦しんだ。NHKの芸術劇場で見たものよりも難解なテーマだった。
 それでも、インテリのアメリカ人には大受けで、一人の女性が立ち上がって拍手を始めるとすべての観客がそれに従った。公演後も音響・照明の日本人スタッフをつかまえて、感想を言ったり質問をしたり。
 UCLAの特別講師には、大駱駝艦の麿赤児氏も名を連ねている。日本生まれの暗黒舞踏はBUTOとして海外に根付いているようだ。


 11月18日(水)晴れ


 アスカ・レストランを終えて日本書店で立ち読みしていると、白人青年が小説売り場で熱心に本を探している。純粋のアメリカ人ながら日本通で、漢字まで正確に読み書きする。日本の歴史にも詳しいがまだ22歳というのには驚かされた。語学の苦手なアメリカ人にも例外はいるものだ。


 11月19日(木)晴れ

 アスカ・レストラン、倉庫番を終えて一息ついたあと、近くのバーへライブを見に出掛けた。レストランのマネジャーはギタリスト目指してLAへやってきて、そのまま居付いた人で、アメリカ人とバンドを組んでいた。スタンダードなロックンロールを演奏し、客もそこそこ楽しんだ。
 演奏後は、ビールや食事がふるまわれた。そのうち、マリファナもでてきたが私は断った。私はタバコも一切吸わないが、体に害があるかどうかというよりも、物質に依存する精神が嫌いなのだ。
 映画「イージーライダー」を夢見て渡米したくせになさけないと言われたが、私はそうは思わない。やりたいことはやる。やりたくないことはやらないのが自由だ。


ウニ丼

1987年11月20日(金)晴れ

 倉庫番の給料として148ドルを現金で受け取る。北米は2週間に1度、給料をくれる会社が多いが、セイブ運輸は週給だった。大してきつくない肉体労働で手軽な現金収入を得られたが、次の週からは仕事がなかった。
 アパートに帰るとバンクーバー時代の友人、ヒロとヨシから電話。帰国のためLAに来ていると言う。リトル東京で落ち会い、焼肉パーティー。約1カ月ぶりとは言え、妙に懐かしい。バンクーバーの10月下旬とLAの11月下旬とでは、ほぼ同じ気候だ。

 11月21日(土)晴れ

 11月22日(日)晴れ

 土・日は、ウエイターは休みなので昼寝などしてのんびりできる。かえって体がだるい感じだ。
 居候先のジョンは、空港でメキシコ産のウニをコンテナに積み込むアルバイトをしていたので半端になったウニを大量に持って帰ってきた。熱いゴハンにたっぷりとぜいたくにウニをのせてサシミしょうゆをかける。世界三大珍味のウニだけにウマイ。ただ、目の前に大量にあるとありがたみが薄れる。毎日食べるとさすがに嫌になった。

 23日(月)晴れ

 1週間のトレーニング期間が過ぎたということで初めてチップをもらった。先輩のウエイターより少ないが、15ドル25セントはうれしかった。
 アスカ・レストランはウエイターのもらったチップを全部集め、一定の割合でマネジャー、すし職人、焼き職人、ウエイター、皿洗いに分けるシステムになっていた。忙しいとダイレクトにチップに表れるのでやりがいがある。
 5時過ぎに日系の編集プロダクションにアルバイトの面接に行くが土・日しか働けないのではだめだと断られた。社長のオオカワさんは、写真も撮れるデザイナーで、写真談義に花が咲いた。

 24日(火)晴れ

 アスカ・レストランのチップは20ドル。チップは25セントきざみで分配される。ランチの場合、ウエイターは20ドル前後が相場だった。ちなみに、メキシカンの皿洗いは2ドル。


生活に必要なもの

1987年11月25日(水)晴れ

 ウエーターのアルバイトから帰るとソーシャル・セキュリティ・ナンバーの書類が届いていた。ボルチモアの事務所から全米に発送されるのだが、受け付けて2週間で着くとはアメリカにしては早い。ナンバーは612-01-7855。
 このナンバーは、銀行口座を開くためという口実で取得したものだが、実際はレストランで働くためのものだ。もちろん、労働許可にはならないのだが、社長はこのナンバーに対し給料を支払ったと税務署へ申告する。税務署と入出国管理事務所は連絡がないのか、これで逮捕されることはない。このナンバーとドライバーズ・ライセンスがあれば実質的なアメリカ生活には支障はないと思って良い。

 11月26日(木)晴れ

 アルバイトが休みなので、1日のんびり過ごす。レンタルビデオ屋で映画でも借りることにした。娯楽の少ない北米ではレンタルビデオはものすごく普及、発達している。料金も1ドルから手ごろ。レンタルに必要なものは住所と証明するもの(ドライバーズライセンス)と経済的信用を証明するものとしてクレジット・カード。私の場合、マスターカードにバーコードのシールをはり、そのままメンバーズカードになった。
 ビザかマスターカードを持っていれば、どんなに身なりが汚らしくても、社会的信用が得られる。蛇足ながら北米ではアメリカン・エクスプレス・カードは使用できない所が多いので、わざわざ入手するのは手数料の無駄。
 あれこれ迷った結果、私の全米ツアーの引き金となった「イージー・ライダー」を借りることにした。あれほどインパクトを受けたはずなのに、見てみるとちゃちなB級映画だ。

 11月27日(金)晴れ

 アスカ・レストランへ行く前に、最寄りのバンク・オブ・アメリカへ口座を開きに行った。申し込み書には、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーを記入する欄があり、架空名義による脱税を防いでいる。
 レストランはド暇で、チップはたったの11ドル25セント。


マリブ・ピア(棧橋)

1987年11月28日(土)晴れ

 正午まで寝ていたのに加え、3時間も昼寝をした。仕事は全然きつくないのに体調が良くない。暇というのも考えものだ。

 11月29日(日)晴れ

 平日は忙しい留学生のジュンとマリブ・ピアまでツーリングした。彼の愛車はカワサキ・KZ650。
 LAからパシフィック・コースト・ハイウエーをほんの30分も北へ走るとマリブに着く。海岸道路だけに流していても気持ち良く、半日コースに最適だ。
 マリブ・ピアはサンタ・モニカ・ピアに比べるとはるかに小さく、どことなく田舎臭い。しかし、なんとなくリッチで心落ち着くピアだ。
 数日前から出来ている口内炎が完治せず、食べ物が味気ない。寝込む程ではないのでなんとも歯がゆい。

 11月30日(月)晴れのち曇り

 週明けのアルバイトはちょっとつらい。
 6時過ぎ、ベニス・アダルト・スクールへ入学の手続きに行った。アダルト・スクールとは、移民のために州が運営している成人向けの学校で英語の他に職業訓練も行っている。本来は移民のための学校だったが、現実には金のない違法入国者の学校といった感じ。
 日記にこう書いてある。


「アパートから3マイル程離れたベニス・ハイスクールのアダルト・スクールに足を運んだ。今日は受け付けだけと思っていたが、受け付けの人と簡単な会話でクラスが決定され、いきなり授業。ノートも辞書も持っていない。
 授業料はたったの50セント。
 119号室は金髪のおばあさん先生。生徒はほとんどメキシカン。エイシアンは私と中国系べトナミン。」


 12月1日(火)晴れ

 アスカ・レストランは大忙しで30ドルのベスト・チップ。
 7時の授業開始にあわせてアダルト・スクールにかけ込んだ。日記は、


「休み時間(8時から20分間)に顔長のメキシカンと中庭のカフェーで話をした。彼はパスポートを持っていないと言う。
 最初はとても不安だったが、英語で英語を習うということがわかってきた。」


ベニス・アダルト・スクール

1987年12月2日(水)晴れ

 レストランは、慣れていないこともあってマネジャーによくしかられる。アダルト・スクールで英語を勉強していても仕事のことなどを考えて集中できない。

 12月3日(木)晴れ

 レストランのアルバイトは相変わらず。フロアの掃除、水、お茶、おしぼりを用意して開店を待つ。
 アダルト・スクールは楽しい。数年ぶりの学生に戻った気分。夜の授業のためか、休憩時間にはパンやコーヒーを売る車が中庭にやってきて、生徒は列を作る。初めてパンとコーヒーを買ってみたが店員がスペイン語でしゃべるため1ドル10セントというのがわからなかった。こんな時は、適当に5ドルか10ドル札を出してお釣りを数えるのも手だ。

 12月4日(金)雨

 レストランが終わったころ、強い雨が降り出したのでシャドー1100を駐車場に残し、ウエートレスのワーゲンで送ってもらった。どういうわけかワーゲンと縁があるようでアメリカでワーゲンに乗るのは3台目。

 12月5日(土)雨

 渡米する時に応援してくれた人や、カンパしてくれた人にセッセとクリスマス・カードを書き進めた。全米ツアー中の気に入った写真を同封し、近況を報告した。海外生活でのでの楽しみのひとつに知人からの手紙がある。クリスマス・カードには必ず返事を下さいと書いたが、返事が来たのはたったの2割。海外生活を送る友人がいる人は、はがきでもいいから送ってあげてほしい。
 夜はジュンといっしょに学生街ウエストウッドを歩いた。サタディ・ナイトの街は学生であふれ返り、どの店もすごい混雑。それでもダウンタウンのように怖い雰囲気は無い。レコード屋やブティックをのぞき、露店のおかしをかじる。大学生になったような気分。アスカ・レストランに置いてきたシャド1100に乗って帰った。

 12月6日(日)曇り

 約30通ともなるとなかなか終わらない。セッセとクリスマス・カードを書き続ける。


同居人とトラブル

1987年12月7日(月)晴れ

 いつも通りぎりぎりまで寝て、アスカ・レストランにかけ込む。ソウテル・ブルバードのアパートからウエストウッド・ブルバードの職場までは、2度コーナーを曲がるだけで着ける。
 LAに帰ってきてはや1カ月以上過ぎたが、季節の移ろいは予想外に大きい。ちょうどバンクーバーの1カ月遅れといった感じで、日々、木の葉が色付き落ち葉が舞う。特に、ウエストウッド・ブルバードの並木道の変化は感動的でさえあった。
 アダルト・スクールに通い始めてあっという間に1週間が過ぎたが口内炎が治らず少々痛む。

 12月8日(火)晴れ

 ウエーターは相変わらずドン臭いようでマネジャーにしかられてばかりいる。
 アパートに帰ると、ミス・マイク・ヨコハマあての書籍小包が日本から届いていた。開けてみると小学館発行の「ダイム」のみが入っていた。訳が分からずダイム編集部にオーバーシー・コレクトコールすると早朝らしくアルバイトの学生しかいなかった。LAからの投書が掲載されたため送ってきたようだった。海外で自分の投書を読むのは異次元体験だ。
 同居人のコスタリカ人・エルネストと電話に関するちょっとしたトラブルが生じて、居候としての私の存在が問題化した。日本人のジュン、マレーシア人のペイとうまくいっていたのに、やはり私が居候という存在は共同生活のルール違反だ。かなり遠慮して暮らしていたが居候の身はつらい。

 12月9日(水)曇り

 レストランから帰って本気でアパートを探し始めた。羅府新報のアパート欄や帰国したセロキのホームステイ先などをあたるが手頃なものが見つからない。
 ジュンのアパートは住人とちょっとしたトラブルがあったのに加え、部屋に誰かいないと入れないという問題があった。セキュリティのため住人以外には合いカギが作れないのだ。
 アダルト・スクールから帰ったときも中へ入れず、近くのファット・バーガーで時間をつぶした。


ベター・ライフ・センター

1987年12月10日(木)晴れ

青空とヘルメット

ロサンゼルス生活の拠点となったベターリビングセンター。日本人を中心に50名ほどが住んでいた。
(カルフォルニア州 12月)

 本日のチップは23ドル75セント。
 日に日に寒くなるようで皮ジャンパーの下にセーターなどを着込まないといけない。渡米前のLAのイメージとはかけ離れている。
 羅府新報で出ていた2361ベニス・ブルバードのボーディング・ハウス(食事付きアパート)を見に行った。1日も早く居候生活にピリオドを打ちたい。
 ベター・ライフ・センターという名前を示す通り、キリスト教系のアパートだった。マネジャー夫婦はハワイ生まれの日系二世で日本語以外にもスペイン語も話した。センター内は禁酒・禁煙。あくまでも原則。卓球ルームもあり、朝食と夕食は食堂でする。
 羅府新報の連載記事を見せて自己紹介し、マイク・ヨコハマの名前で住むことになった。とりあえず、保証金20ドルを支払って帰った。
 アダルト・スクールはクリスマス・ソングの練習。ジングルベルや聖しこの夜を英語で歌う。3日前に入学したイスラエル人のガルはクリスマスソングを歌わなかった。

 12月11日(金)晴れ

 アスカ・レストランのマネジャーから進歩していないとおこられてばかり。
 金・土・日はアダルト・スクールは休み。

 12月12日(土)曇り

 ウエートレスの先輩のハルミさんに夕食に招かれた。目の大きな魅力的な女性だが残念ながら人妻。
 LAのはずれのアパートは小ざっぱりとしていた。夫もライダーで話がはずんだ。日本人の部屋で日本食を食べると、そこが異国であることを忘れてしまう。

 12月13日(日)晴れ

 日曜日はジュンと近くへツーリングすることが多い。ベニス・ビーチで散歩し、マルナデルレイでシーフードのランチ。LA生活を満喫。
 夜は、サンタモニカのアット・マイ・プレイス(ライブハウス)でビールを一杯。アスカ・レストランのサトウさんのバンドが演奏したのだが前に見たのより数倍よかった。ウエーター仲間も集まってリラックスした雰囲気がうれしい。

12月14日(月)晴れ

 ランチタイムの後、約2時間は休みになる。すぐ職人たちは調理場での奥で麻雀をすることを楽しみにしていた。いつもは見ているだけだが、初めてメンバーに加えてもらった。遊びなので1点10セントと非常に安く、ジョークを飛ばしながら打つ。
 結果は、一人勝ち。大学時代から始めたので大して強くないが、すし職人たちの邪魔にならないように手堅く打っていたのが幸いしたようだ。麻雀にはルール違反ではないが、やってはいけないことがあると教えられた意味が良くわかった。
 ベター・ライフ・センターへ引越しに行ったため、アダルト・スクールに大幅に遅刻してしまった。先生は次の学期に備えて個別面談をやっており、残りの生徒は写真を見て物語の英作文に頭を悩ませていた。作文を発表すると多くの文型を使っていて良いと先生から誉められ、生徒からは大きな拍手を得た。

 12月15日(火)曇り

 アスカ・レストランは32ドルのベスト・チップ。
 いよいよ、ベター・ライフ・センターに移り住んだ。近日中に個室の6Aが空くのだがそれまでは3人部屋の1C。同居人は中国マレーシア人。
 アダルト・スクールは1987年最後の授業。クリスマス休暇に入る。レクチャーよりも事務処理に費やす時間が長い。
 引っ越したせいで、スクールから20kmも走らなければならない。気温は10度しかない。薄手のジーパン1枚の太ももがしびれ、しんまで冷え切った。

 12月16日(水)雨

 ものすごく寒い中、レストランへ向かった。レインウエアは、きっちり着込んではいても寒くてスピードが出せない。LAがこんなに寒い所だとは思っていなかった。暖房なしではとても冬は越せない。
 個室の6A号室に移り、隣りの7号室にあいさつに行くと、ハーフのケンをはじめ、アパートでの生活を楽しいものにしてくれた人たちと知り合いビールの歓迎を受けた。
 陸上部のケンとは話が合い、近所を一緒に走ることになった。数週間前から走り始めたのだが良きパートナーを得てLAマラソンに完走することになったのだ。

一足先のクリスマス・パーティー

1987年12月17日(木)雨

 寒さと雨ののため、ぶくぶくに着ぶとりして移動することになる。アスカ・レストランまでサンタモニカ・フリーウェーを通って15kmの道のりを20分ほどかかる。
 アダルト・スクールの仲間が集まって一足早いクリスマスパーティーを開いた。もちろんお世話になった先生を招待して、近くのピザ屋でワイワイ過ごした。授業中に集めた5ドルのカンパで花束と100ドルの小切手を送った。アダルト・スクールには当然、クラス委員といったものは一切ないが、リーダー役というものはできるものだ。大多数を占めるスペイン語系のメキシカンがすべてをとりまとめる。カンパのお知らせやピザ屋での注文もすべてスペイン語で行われた。
 飲み屋は当然ビールだと思い、大きめのピッチャーを注文したがビールを飲んだのは私を含めて二人しかおらず、すっかり酔ってしまった。先生が心配して大丈夫かと聞くので、1杯だけだと答えた。
 先生は終始にこやかだった。州の運営するアダルト・スクールの教師はどれだけ給料をもらっているのかは知らないけれど、どの先生もとても熱心で英語がしゃべれない違法入国者に英語を教えている。彼らには金銭的報酬よりもうれしいパーティーだろう。
 先生は名前を覚えることがうまく、すべての生徒の名前を正確に呼んだ。銀髪にきちんとくしを通した初老の女性だったが、とてもりりしい。Rの書き方がドイツ流だったのでドイツ語で「ドイツ語がしゃべれますか」と聞いてみた。
 先生はちょっと驚いた様子で「ナチューリッヒ(もちろん)」とドイツ語で答えた。子供の時、移民してきたという。
 パーティーにはカンボジア難民も参加していた。彼女たちは日本人の私をつかまえて、カンボジアがいかに美しい良い国であるかを下手な英語で話すのだ。山は緑深く、川は清く、海は美しいと。私は日本がいかに素晴らしいかを説明する欲望を抑えて、カンボジアへ帰りますかと聞くと、「ネバー(むりね)」と悲しそうにつぶやいた。
 移民の国アメリカと東洋の神秘日本について感慨が一層深くなった。


ピストルの恐怖

1987年12月18日(金)快晴

 コリアンタウンのはずれに引越したのでウエストウッドのアスカ・レストランへ通うのに、少し早起きしなければならない。それでも9時に起きれば十分間に合う。
 天気が良く暖かい。カリフォルニアのイメージそのまま。数日前の寒さがウソのよう。
 LA南のガーデナ市でパラダイスすしがオープンするので飲み食い放題だという情報をつかんだ。
 ベター・ライフ・センターの夕食を取らずに、センターの友人のアメ車で出掛けた。メンバーは車のオーナーのコウジさん(30)、自衛隊上がりの神田君(24)、それと私。
 タダというのでものすごい人だかり。ようやく席に着いたもののロクなすしなど食べられない。にぎったり、巻いたりしたそばから大勢が取り合う形になるのでとにかく確保するのに必死。
 それでも、日本製のビールもたらふく飲み、ドライバーはソーダで酔いをさまして表へ出た。
 一杯機嫌の3人はそのまま帰らず海までドライブすることにした。
 のんびり走っていると後にパトカーがついてきた。そのまま走っていると赤色灯が回り出し、停車を命じられた。
 何事かと思い、シートベルトをはずし、ドアを開けようとするとポリスマンにドアを蹴られ、
「ステイ・ヒア(そこにいろ)」
とどなられた。
 左手に持ったライトで目つぶしされ何も見えない。ライトの隣に丸い黒光りしたものがチラチラ見える。
 次に瞬間、私は静かに両手をあげた。
 一人ずつ外へ出され、ボディチェックの後、縁石にすわらされた。そのときも、プリーズなしのシット・ダウン。命令調だ。
 コウジさんはなぜとめたと抗議するが何も答えず黙々と車の内部までチェックしている。神田君は「どうしたの、どうしたの」とうろたえるばかり。
 スピードが遅すぎるので不審車に思われたらしい。しかし、ポリスは私達がギャングだと想定し、発砲準備し、パトカーも3台応援にかけつけた。私達は単なるすし屋帰りの酔っ払いの意識しかないのに、そのギャップがアメリカ社会を感じさせた。


旅行者保険の延長

1987年12月19日(土)晴れのち雨

 朝起きてすぐジョギングをしてからシャワーを浴びた。ジュンの所に居候していた時は、いつも一人で走っていたがベター・ライフ・センターではケンというランニング仲間ができた。
 ケンは6月に高校を卒表したばかりの18歳で日本交通公社で働いていた。高校時代は長距離選手だっただけにいつも彼には勝てなかった。

 12月20日(日)晴れ

 気晴らしにサンディエゴまで往復400kmのツーリングに出た。センターの仲間がいっしょに行きたいと言うので、ノーヘルのままリアリートに乗せた。午後8時に帰って来た時はグッと寒かった。

 12月21日(月)晴れ

 レストランのチップは15ドル75セント。
 センターでは本気で卓球に興じた。卓球も熱くなるスポーツだ。

 12月22日(火)晴れ

 レストランに間に合うぎりぎりにしか起きれない。8時までは朝食のサービスがあるが、ほとんど食べたことはなかった。
 足がむくんでだるい。不規則な生活ながら5kmのランニングはケンといっしょに続けた。

 12月23日(水)晴れ

 日差しは強いが空気は冬。LAの冬は寒い。
 レストランの後、ジュンのアパートに寄ると郵便局から通知が届いていた。通知を持ってセンチュリー・ブルバードの空港郵便局へ行くとあちこちタライ回しにされた後、ようやく横浜の友人からの手紙を受け取ることができた。
 中身は旅行者障害保険を半年延長した書類、システムダイアリー、預金通帳のコピー。保険は翌週にも切れるところだったのでホッとした。保険は予定より長めにかけておき、帰国後に余った分を返してもらうのが正解だ。

 12月24日(木)晴れ

 レストランはこの年最後の仕事となった。土・日はランチタイムがないのに加え、クリスマス、ニューイヤーは休みになるので12月25日から1月3日まで10連休。年明けにはディナータイムを働かせてもらうようにマネジャーに頼んでおいた。


クリスマス

1987年12月25日(金)晴れ

青空とヘルメット

多国籍な仲間とクリスマスパーティ。共通語は英語。
(カルフォルニア州 12月)

 今日はクリスマス。欧米社会最大のイベント。大変な騒ぎになるのかと思うと、そうでもない。逆に主な商店は店を閉めているし、ホームパーティーが主体なので街はひっそりしている。
 退屈な1日になりそうだったが、元ベター・ライフ・センターの住人が遊びに来て、パーティーに誘ってくれた。パーティー会場のアパートにはエクアドル人、コロンビア人、ぺルー人、フランス人、日本人が集まり、ミュージックビデオなどを見ながらワイワイ騒いだ。会話は当然英語。かなりなめらかに話せるようになっていた。

 12月26日(土)晴れ

 午後6時からイーストLAの体育館でバスケットをした。センターの住人対日系アメリカ人で戦ったがどうしても勝てなかった。アメリカ人はがむしゃらに前に出る戦法でぐいぐい押してくる。
 帰りにチャイナタウンの金都酒家で夕食をとったが、この時、ハウスウ事件(中国人向けのスープが誰も飲めなかった)が起こったのだった。

 12月27日(日)晴れ

 アスカ・レストランの忘年会が夜10時から開かれた。
 社長以下皿洗いまですべての人間が店に集まった。食べ物も飲み物も十二分にある。ビンゴゲームやカラオケも飛び出し、大いに盛り上がった。
 私はお世話になったジュンを連れて行ったが、帰りは酔っ払ってしまったので、彼のアパートでさましてからセンターに帰った。酔っているときは行動が鈍くなるので停止線で止まれなくなりとても危険だ。

 12月28日(月)曇り

 昨夜は明け方に寝たので昼近くに目が覚めた。休みが続くと生活が不規則になる。

 12月29日(火)雨

 なんとLAで本物のもちつき。海外に住む日本人あるいは日系人の方がよほど在日日本人より日本人らしい生活を送っている。昼食はつきたてのもちをきなこ、おろしでたらふく食べた。
 シャドー1100の保険が切れそうだったので185ドル70セント支払って6カ月延長した。持ち金はほとんどゼロになったが、当面の心配事はすべて片付いた。

 12月30日(水)晴れ

 渡米して半年。3度目にLAに来てはや2ヵ月。変わったことと言えば外出する時に地図と辞書を持たなくなったこと。
 深夜、友人のアメ車でマリナデルレイあたりを流した。世界最大のヨットハーバーでリッチな雰囲気がプンプンする。

 ロサンゼスルを楽しみながら毎日が過ぎていった。安いアパートにレストランのアルバイト。カルフォルニア州の運転免許も、アメリカの社会保障番号も取得した。生活の場としてのアメリカがそこにあった。このまま定住することも不可能ではない。いろんなことを考えながら年の瀬を迎えていた。



 
 





EZア・メ・カ
2-10 ロサンゼルス時代(1997年編)
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE