EZ A Me Ca by Mike Yokohama
第2章 全米ツアー
第11期 ロサンゼルス時代(1988年編)

アメリカのプロバスケットボールも堪能。
( ザ・フォーラム 1月)
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異国の正月
1987年31日(木)晴れ
いよいよ大みそか。異国で正月を迎えるのは初めてだ。
北米では正月は大したイベントではないが、車のクラクションを鳴らしたりする。ベター・ライフ・センターのあるコリアンタウンのはずれはあまり治安のよい所ではないのでピストルを撃って正月を祝う人がいると聞かされていた。私は面白いジョークだと思っていたが実際に銃声が聞こえてきたので一歩も外へ出なかった。
折角なので日本の実家に国際電話を入れてみた。時差の関係で日本は正月の朝。まだ電話を付けていなかったので隣室のペルー人のミゲルに事情を話して電話をかけた。
1988年1月1日 元旦 (金)晴れ
センターの朝食は、おぞう煮とお節料理。おもちはもちろん3日前に自分達でついたもの。むしろ日本にいるときより正月っぽい。
連日、不規則な生活が続いていたので4時間以上も昼寝をしてしまった。ぶらぶら過ごすのももったいないので、リトル東京へ映画を見に行った。見るのは当然、松竹の寅さんシリーズ。英語の字幕スーパーが入りとてもおもしろい。日本語のドラマを英語の字幕スーパー入りで見ることは、英会話の勉強に大変役に立つので日本でもやってほしい。
帰ろうとして重大なミスに気付いた。立体パーキングに停めたシャドー1100のキーがない。どこを捜しても見当たらない。急いで駐車場に戻るとシートの上にあるではないか。LAでも盗まれずにすむという幸運はあるものだ。
1月2日(土)くもり
昼近くに起きてダラダラ過ごす。この年の正月はいつにない変なものだった。LAで迎えたのに加え、10連休のまっただ中。連日、日本人との飲み会で体調はガタガタ。旅に出る気力も失せてきている。安易な方向に流されかけている。
噂のマルホランド
1988年1月3日(日)くもり
10連休も今日で終わり。朝からモーターサイクル4台(5人)で噂(うわさ)のマルホランドへツーリングに出かけた。マルホランドはLAから北西へ小1時間の所にある。延々と続く高速コーナーの途中にロックストアという雑貨屋レストランがあり、ライダーのたまり場になっている。
ロックストアにはハーレーダビッドソンを中心に大型車が次々に集まってくる。年齢層は高くおじさんの社交場風。みんなよい顔をしている。私も30年後にはくそおやじになりたい。
血の気の多い若い飛ばし屋達はもう一段高い広場に集まってコーナーリングを見守っている。こちらは日本製の600から1100ccのものが主流。
LAの人気コメディアン、ジェー・レイーが来ているとハーフの友人が興奮していたが、私から見るとただの。おっさんだった。
1月4日(月)一時雨のち晴れ
10日ぶりのウエイターは嫌で嫌でしょうがない。それでも生活の為、休むわけにはゆかない。
アダルト・スクールは1ランク上のクラスに変わり、気分一新で出かけた。教室は満員で座り切れない。先生は30歳くらいの金髪女性でOKを連発する。
10連休の間に英語力がかなり落ちたような気がした。
1月5日(火)雨

巨大なバスケットスタジアム。マジックジョンソン、アブダビジャバーらが活躍していた。
( ザ・フォーラム 1月)
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室温を高めにしておいたため、体がだるく風邪気味になってしまった。アルバイトの後、ジュンのアパートへ行くと、ごろんと寝てしまった。
ギリギリにアダルト・スクールにかけ込むとなんとか座れたが鼻水が出るので中座した。
1月6日(水)晴れ
年が明けたせいかアスカ・レストランがとても忙しい。昨日は36ドル50セントで今日は30ドルのチップ。
7時からイングルウッド市にあるザ・フォーラムという10,000人も入る体育館でプロバスケットの試合を見た。
勝ったのは黄色いユニホームのロサンゼルス・レイカーズ。1989年に引退したアブダビ・ジャパンのスカイ・フックは感動的でさえあった。なぜかコートサイドにジョン・マッケンロー(テニス)が来ていた。
6回目のオイル交換
1988年1月7日(木)晴れ
アルバイトの後、久しぶりにヘルスクラブへ行った。11月に入会したころは週3、4回は通ってトレーニングしていたがジョギングを始めてからほとんど行かなくなっていた。脱会したいと申し出ると1年間はやめられないという返事。月会費をみすみす支払わなければならないのか。それでも、水泳とサウナは気持ちよかった。
1月8日(金)くもりのち晴れ
無理して7時過ぎに起きて朝食を食べた。ベター・ライフ・センターは食事を食べても食べなくても家賃は同じなので食べる方が得だ。ファースト・フード店でも3ドルはかかるので、早起きは3ドルの得だ。それでも、早起きはつらい。
夕食後、10km走ったがヘトヘトに疲れた。
1月9日(土)快晴
6回目のオイル交換。シャドー1100のトリップ・メーターはすでに40,000km。
久しぶりに地球の歩き方を読んでいるとフロリダのシーズンは4月中旬までだということがわかった。ビザの関係で5、6月に回ることが不可能な今、予算面で非常に苦しい。
10月の時点で南部を回れば十分に金もあったのだが、今となっては後の祭りだ。10,11月に2000ドルかけて回れば良かったと思うのは今こうして生活が安定しているからだろう。
あの時点ではテント、振り分けバッグなどボロボロだったし、精神的に旅に出る力はなかった。バンクーバーのことしか考えていなかった。
とにかく、金を貯めてフロリダ・ツアー(全米50州ツアーの後半)は完遂したい。
1月10日(月)晴れ
センターの住人がモーターサイクルでメキシコへ旅立つというので10ドル札をカンパした。仲間には少しでも応援したい。
ローズボールで開かれているスワップミート(青空市)を見に行った。入場料4ドルを支払って中に入るといろいろな店が軒を並べていた。内容はプロの業者が多く、大したアンティークなどはなく、大量生産の化粧品や電気製品、衣料が多い。ウエーター用のYシャツを10ドルで買った。
朝寝坊ケン・カールソン
1988年1月11日(月)霧のち晴れ
朝食をパスして寝ていると隣のケンが青い顔をして飛び込んできた。日本語と英語のちゃんぽんでバスに乗り遅れたのでダウンタウンの会社まで乗せてくれと言う。
ケンはダウンタウンの日本交通公社で事務の仕事をしていた。アメリカ人には珍しく車を持っていないのでいつもバスを利用していた。
LAの通勤ラッシュは東京並みで片側6車線のフリーウェーが完全に麻痺する。その間をケンを乗せたシャドー1100は走り抜けた。
レストランのアルバイトを終えてから、愛機ニコンF-301を修理に出した。トーランス市のニコンUSAに着くと4時を過ぎていたのでドアは閉まっていたが、二世のような人が開けてくれて助かった。
露出計を制御するコンピューター部がいかれたようで部品を交換することになった。修理代の91ドルを60ドルに割引してくれたが私にとっては痛い出費だ。それでもLAにはニコンがあるので助かる。数日後、受け取りに行くとグリップ部が交換され、新品のように見えたが、手になじんだ愛着感がなくなっていた。
1月12日(火)晴れ
昨夜、日本へ帰った神田君からほとんど使っていないシュラフを安く譲り受けたが、慣れないせいかぐっすり眠れない。
アルバイトを軸に生活は安定しているが、毎日が矢のように過ぎていく。これが日常というものだろう。
1月13日(水)晴れ
珍しく朝食を食べていると、またしてもケンが青い顔で飛び込んできた。あわててシャドー1100をぶっ飛ばす。半年のつきあいで会社へ乗せていったのは2回だけ。
レストランは順調に客が入り、社長一族も7名で押しかけ212ドルも飲み食いし、40ドルのチップを置いた。結局33ドル50セント持って帰ったが、毎日これだとありがたい。
1月14日(木)晴れ
レストランは29ドル25セントのチップで貯金が増える。
ベニス・アダルト・スクールは文法中心でおもしろくないのでこの日を最後に行かなくなった。そのかわり、会話中心のスクールを見つけた。
ニュー・シューズ
1988年1月15日(金)くもり
チップ30ドルと調子が良い。
ヘルスクラブでトレーニングした後、ジョギングシューズを探した。各種売っているが底の薄いあまりごつくないものが好みだ。数軒当たってみたが手頃なものが見つからない。半年前にスーパーで買った8ドルの韓国製はすでにボロボロなのですぐにでも欲しい。しかし、私は23.5cmと足が小さいのでなかなかサイズが合わない。かと言って女性用では横幅がきつすぎる。
何軒目かのビック5(スポーツ店)でついにサイズ9.5インチのアシックス(日本製)を見つけたときはときめいた。さらにバーゲン中で17ドル3セント(税込み)。これで3月6日のLAマラソンを走り、日本へもはいて帰った。
さっそく夜は、いつものコース(約5km)を2周走った。
1月16日(土)くもり
アメ車に乗っているコウジさんに誘われて、アナハイムスタジアムのショーを見に出かけた。野球場に砂を入れ、単に4WDがオモリを引っ張るだけのレース。たったの数mで止まってしまうものもある。一瞬のゲームで爆音だけが響く。大しておもしろくないがアメリカ人は結構楽しんでいるようだ。
冬の夜だけに、かなり冷え込んだ。防寒用にレーンウエアを着込んでいたがそれでも寒い。アメリカ人で毛布を用意してくる者もいた。
1月17日(日)雨
日曜は食べ放題のすし屋・トーダイでブランチをとることが多い。
LAマラソンの申込用紙に必要事項を書き込み、15ドルの小切手を入れて出した。目標タイムは4時間と書いた。
1月18日(月)快晴
今週からランチタイムに加えて、ディナータイムも働くことになった。アダルト・スクールへ行けなくなるがフロリダ・ツアーの資金作りのためだ。
昼休みは疲れていたので、レストランの客席で寝て過ごした。5時にメキシカンのグレゴリオが入ってくる。眠い目をこすりながらディナーの準備に入る。
メキシコ・ティワナ旅行
1988年1月19日(火)快晴
左足のコウが痛むのでシップを張ったが変化がない。ジョギングは何とか続けているが完全に故障だ。シフトチェンジしても痛みが走る。ウエーターはなんとかこなせる。
1月20日(水)晴れ
隣のミゲル(ペルー人)のステレオがうるさくて良く眠れない。体調も悪く左足も悪化したようだ。
昼、夜のウエーターは少々きついがウエーター仲間は気の良い人ばかり。
1月21日(木)快晴
昼、夜のウエーターの後、深夜にジョギング。LAで深夜に外に出るのは危険だが、ジョガーは金を持ってないのを、悪人も知っているので大丈夫だろう。ハーフのケンも一緒なのでやや心強い。
1月22日(金)晴れ
ランチタイムは暇でチップは16ドル25セント。
夜はケンをひろってダウンタウンの日米文化会館のアダルト・スクールへ足を運んだ。先週の金曜も行ったのだが、地下一階に4、50人が集まりグループで話をしている。1時間ごとにメンバーチェンジがありパートナーを変える。
月から木曜は英会話の日で日本人が50セント支払うのだが、金曜日は日本語会話の日でアメリカ人が50セント支払う。
日本語を教えるのだが英語で説明しなければならないため、ものすごく英語の勉強になる。それと、アイスクリームやヨーグルトのデザートが出てとてもリラックスした中で会話を覚えられる。
1月23日(土)快晴
1週間前にベター・ライフ・センターに越してきた留学生のミツを乗せてメキシコ国境の町・ティワナへ遊びに行った。
国境近くで1日分、5ドル85セントの保険を掛け、シャドー1100で入国した。ティワナは考えていたよりずっときれいで安全だった。町全体がショッピングタウンといった感じで客引きも「コンニチハ」「ミノルタダ」「アメヨコヨリヤスイヨ」「トモダチ」「チョットマテ」「タダミタイ」と声をかけてくる。
アメリカに再入国するときもすぐに通れた。後ろのミツはヘルメットもとらずパスポートを見せるだけ。たった数時間550kmの短い旅だったがメキシコが好きになった。
ディズニーランド
1988年1月24日(日)快晴
ケンの会社の同僚の彼女が日本から遊びに来るというので、みんなでディズニーランドへ出かけた。
LA周辺にはディズニーランドをはじめ、ナッツベリーファーム・ユニバーサルスタジオなど多くの観光地があるが、どれも行ったことがなかった。東京の住民がめったに東京タワーへ行かないようなものだ。行きたいとも思ってなかったが、もののはずみで21ドル50セントの入場券を買うことになった。
いろいろな乗り物があり、そこそこ楽しめる。が、それまでだ。ジェット・コースターのたぐいは好きではない。正確に言うならば、安全が確保された上でスリルだとかなんとか言って喜ぶ精神構造が嫌いだ。その点、モーターサイクルはいさぎよい。
東京ディズニーランドへも行ったことがないのでないのでよく分からないが、LAの本家より、日本のほうが面白いらしい。日本からきた女の子達はそう言っていた。それより、女の子達の態度が気に食わない。自分本位の行動ばかりするし、通訳などしてあげても全然感謝しているようすがない。なまじ美人で甘やかされて育った人間には閉口する。
1月25日(月)晴れ
アスカ・レストランは30ドル75セントのチップと好調。夜はケンを連れて日米文化会館で英会話の練習。
1月26日(火)晴れ
12月の寒さがウソのように暑い。吉野家(牛丼屋)の前で10時のオープンを待っていると汗すら出てくる。
レストランの後、久しぶりにヘルスクラブでトレーニング。夜はケンをさそって英会話の練習をした後、8kmのランニングと充実した一日となる。
1月27日(水)くもり
レストラン、英会話、ランニングといつも通りの生活。日々の生活が早く過ぎることを祈るとともにもっと時間がゆっくり流れてほしいと願う。
早くフロリダ(全米50州最後の目的地)に旅立ちたいと思うが先立つものがない。なんとも言えない心境だ。
ステーキ遊び
1988年1月28日(木)晴れ
左足はまだ少し痛むがほとんど治った。ウエーターにも支障はなく、いつも通り8kmのランニングコースをケンと走る。
1月29日(金)晴れ
ランチタイムはド暇でチップはたったの13ドル75セントだったが、ディナータイムは33ドルと上々。ディナータイムは時間が長くチップも多いが、アパートに帰ると12時前後になってしまう。
それより、午後7時ごろ、田舎の母から国際電話があったのにはギョッとした。国際電話など生まれて1度もかけたことのない母が職場に電話してきたのだから、てっきり祖父か誰かが死んだものと思った。実際は横浜のアパートを預けてきた友人が家賃を滞納してトラブルを起こしていたのだ。急いで帰国する準備として帰りの航空券は常に持っていたが使わずにすんだ。
1月30日(土)晴れ
家賃を滞納している友人に国際電話(6ドル)をかけうまく処理してくれることになった。
近くの高校のテニスコートでマレーシア人のアルバート、ハーフのケン、留学生のミツとテニス。昼下がりに1時間かけて11kmを走る。フルマラソン42.195kmはまだまだ長い。
ディナータイムのウエーターをこなし零時過ぎに帰ってくると隣部屋のペルー人のミゲルがマリファナと酒でプッツンいかれて暴れている。みんなは、すっかり迷惑し、寝たのは4時過ぎ。私は日本人も含めて有色人種を差別するつもりはないが、ミゲルのようなやつがいるとペルー人を嫌いになってしまう。
1月31日(日)くもり
ミゲルのせいでベター・ライフ・センターのみんなの体調は最悪。
夕食は私の考案したステーキ遊び。みんなでスーパーマーケットに行き、各自気に入った肉を買って食べる。基本的に食べるのは牛肉のステーキだけ。ご飯やパン、野菜も極力食べず、ひたすらステーキを食べる。こんなぜいたくな遊びは日本ではできない。ちなみにステーキソースはしょうゆが一番。
ドイツ人村
1988年2月1日(月)晴れ
週末にラリって暴れたミゲル(ペルー人)は元気になっていたが、私は疲れが抜けきらず、アスカ・レストランの昼休みに寝てしまった。
5時になるディナータイムの準備をするグレゴリオが入ってきて起こされる。彼はバスボーイと呼ばれ、客の食べ終えた皿を下げる仕事をしている。ディナータイムの30分前に出勤し、フロアに掃除機をかけ、ナプキン、お手もとを並べる。非常に有能で、真面目に良く働くがメキシカンなので出世はできない。
2月2日(火)雨のち晴れ(16日ぶりの雨)
ランチサービスからベター・ライフ・センターに帰ると新しい入居人を紹介された。神戸からきた女流写真家の三宅マリさん。文章も書く人でボキャブラリーが異常に多い。プロの迫力に圧倒された。
夜は日米文化会館で英会話の後、8kmのランニング。
2月3日(水)晴れ
昼・夜ともアスカ・レストランでガンバった。先週、先々週は良く働いたので、225ドルの家賃を払っても、かなり残った。この分で行くと2月中には貯金が1,000ドルを超え、3月中旬にはバハカリフォルニア・フロリダ・ツアーに出れそうだ。もう少しがんばろう。
忙しいながらも昼休みに10kmを走った。LAマラソンに向けて確実に力がついているようだ。
2月4日(木)快晴
昼・夜のウエーターを終え、センターの食堂で意外な人と出会った。あれは確か7月の終わりか8月の初めにアラスカの帰りに出会った人だ。青のウインドブレーカーを着て、一生懸命自転車をこいでいた日本人、西口さん。あの時の薄汚れたウインドブレーカーを着ている。
世間は広いようで狭い。大いに酒を飲み、旅行や人生について語り合った。
2月5日(金)快晴
サンタモニカ・カレッジのユーコちゃんとデート。シャドー1100に二人乗りし、インターステイツ110号線を南下。30分後、風を切って走ると、ドイツ人村・アルパイン・ビレッジがある。
全アメリカ人にドイツ系の占める割合はイギリス系と同程度に高いが、ある意味では少数民族である。ビレッジにはドイツ専門映画館、旅行社、民芸店、スーパーがある。スーパーには、おびただしい品のソーセージとビールが並んでいる。
駐車場ではフリーマーケットが開かれ、小ぶりのナイフを買った。ドイツ村とは言えほとんどの人は英語で話す。
チャイナタウン10kmレース
1988年2月6日(土)晴れ
休みは早く目が覚める。2日ぶりに10km程走ると体が軽い。明日は、チャイナタウンの10kmレースに初めて出る予定だ。アメリカでは10km走ることをマラソンとは呼ばず10km(テン・ケイ)レースと言う。
2月7日(日)晴れ
7時前に飛び起き、シャドー1100でチャイナタウンへ急いだ。早朝だけに寒い。
13ドルの参加料を支払い、十分にウォーミングアップした。アメリカで初めてのレース。少々、緊張するが勝つためのレースではなく、楽しむためのレースであると自分に言い聞かせる。
レースはチャイナタウンの中心部から小高い丘を登り、戻ってくるコース。呼吸が苦しくならないペースで走り切った。
最後の数100メートルの直線のみラストスパートをかけて、46分25秒。走り終えた後、生オレンジのカットサービスがあったが、次から次へとむしゃぶりついた。
LAのマラソンまであと4週間。もう一度くらい10kmレースに出る予定だ。
2月8日(月)快晴
レストランへ出勤する前にウィルシャー・ブルバードのフィリピン領事館へ教育事情を調べに行った。昨夜、沖縄出身者とささいな事で口論になったのだ。彼らは、自分達が内地から差別され続けていると言いながら、フィリピンなどを極度に差別した発言を平気でするのだ。
差別とは、より低い差別の対象を見つけてはどんどん拡大していくものなのだろう。
2月9日(火)快晴
天候が良く暑いくらい。
ウエーターはランチタイムだけだったので夜は久しぶりに日米文化会館へ行こうと思っていたが、ベター・ライフ・センターの元住人が遊びに来て、おもしろい集会があるというのでついて行った。
元住人の他に、コウジさん、フォートライターのマリさんもいっしょだ。集会とは、NSAと言う名の創価学会だった。次々に体験談を話し、みんなが拍手をしながら気分が高まっていく。メンバーは黒人も多く、病める国・アメリカの一端を見る思いがした。
ノン・スモーク
1988年2月10日(水)快晴
最近は8時前後には目覚め、出勤ギリギリまで寝ていることは少なくなった。11、12月ごろに比べると労働時間が二倍近くになり、ランニングの距離も5kmから8kmに増やしたというのに不思議なものだ。人間とは単に肉体の動物ではなく、目的とか意志を持った有機体なのだ。
昼、夜合わせてチップ60ドルとどんどん貯金が増える。支出は朝食をパン屋でとって91セントだけ。
2月11日(木)快晴
ディナータイムに客同士のトラブルが起こった。ちょうど私が担当していたスシ・バー(カウンター)で、韓国系のアベックと、白人女性二人連れでケンカが始まったのだ。
事の起こりは、韓国女性がたばこを吸ったことにあった。白人女性はべジタビシアンを含め、健康推進派で当然、たばこを吸わない。隣の韓国女性にたばこをやめろと背中をぶったのだった。
烈火のごとく怒った韓国女性はたばこをふかし続け、猛烈に反論に出た。
ビバリーヒルズ市は室内で公衆の場所はすべて禁煙だが、アスカ・レストランのあるLAはそうではなかった。
結局、私の語学力では事を収めることができずマネージャーに来てもらったが、四人全員が帰ってしまった。なんとも後味の悪いトラブル。
いきなりぶってしまった白人にも非はあるが、公衆衛生意識の低いアジア人として情けない気持ちになった。さらに社長の中国人は自らがヘビースモーカーでもあり、レストランは禁煙席すら設けていなかった。マクドナルドでも禁煙席は常識なのに健康ブームに乗ったスシ屋にないというのはおかしい。(1992年にカルフォルニア州全体で公共の場は禁煙化された)
日本は経済的には世界のトップレベルに達し、その他の分野でもトップを行くものが多く誇りに思っているが、たばこを含め公衆モラルのレベルは、アジアの中でも誇れない。
2月12日(金)快晴
連日の出勤で内臓に力が入らない。少し走っても帰りは歩く。
貯金がついに1,000ドルを超え、フロリダ・ツアーが近づいてきた。毎日が忙しいので金がたまる(使わない)一方だ。
2月13日(土)晴れ
ディナータイムに来たアベックの金髪のリンダは背中がモロ見えのタンクトップで色っぽかった。私のサービスが気に入ったと言ってチップ10ドルを手渡してくれた上に抱き合った。
金髪はパッと見や写真写りが良いが、間近で見ていると1時間で飽きる。
アメリカ中流家庭
1988年2月14日(日)晴れ
月曜のディナータイムまで休みになったので、ケンを乗せて小旅行に出かけた。
行き先はケンの御両親の住むカリフォルニア州中部の田舎町バイセリア。LAから北300kmの砂漠地帯にあり、夏は暑いが、2月は過ごしやすい気候だった。
ケンの父は、九州大学で英語の教授をしていたスエーデン系アメリカ人で、ケンとそっくり。母は、博多弁を早口でしゃべる小柄な日本女性で、お花の先生の他に日本語ビデオのレンタル屋も自宅で経営していた。
アメリカ中流家庭で中庭にはプールがある。プレールームにはビリヤード台も置いてある。ケンに言わせるといらないガラクタばかり置いてある家らしい。
夕食前は近くを12km程2人でランニング。羊の囲いや麦畑が広がり、とてものどか。カリフォルニアといってもこの辺には、スパニッシュ系や黒人系、アジア系は極端に少なくケンがLAに働きに出た時は少なからずカルチャーショックを受けたようだ。アメリカの田舎道をジョギングしているなんて夢のようだ。渡米前は何のあてもなく、モーターサイクルで放浪するはずだったのに信じられない。
ステーキの夕食後、全米中で探していたものを手に入れた。1969年発行の英語版イージー・ライダーだ。古本屋を見付けるたびに探していたが、NYでもLAでもなかったものが手に入った。本マニアのケンの父のコレクションの一冊にあったのだ。日本語版はセリフを覚えるくらい読み返していたので、どうしても原文を読んでみたかった。イージー・ライダーは全米モーター・サイクル・ツアーの原点だ。
夜は、サラダ記念日、北斎漫画、男女7人秋物語のビデオを楽しんだ。
300kmノン給油
1988年2月15日(月)晴れ
アスカ・レストランのディナータイムから働かなければならないので、昼前にはバイセリアのケンの実家を後にした。
よく整備されたフリーウェーを300kmノン給油で走り切ると燃費が25.5km/lにも伸びた。前後輪とも交換の時期だし、ツアー(メキシコ、フロリダ・ツアー)前にはバッチリ整備したい。
日常に埋没していた時期だけにたった往復600km強のツーリングが刺激になった。
2月16日(火)晴れ
このところベター・ライフ・センターへ日本からおかしな大学生たちが入ってきて、楽しいのは楽しいが深夜まで話し込んでしまい体調がすぐれない。
ヘルメットをシャンプーしたので香りが新鮮だ。旅を始めたばかりの事やニュージャージーで居候していたころがよみがえる。人間の臭覚は想像以上に豊かだ。
2月17日(水)快晴
ランチタイム25ドル75セント、ディナータイム30ドル50セントのチップとまずまず。昼休みの板さんとの麻雀は2回ともトップと絶好調。風邪気味で少々のどが痛いが8kmのランニングもきちんとこなした。
来月15日にはレストランを退職してツアーに出ることもマネージャーに伝えた。
2月18日(木)快晴
麻雀ははっきり言ってなめてかかっていた。2回ともマイナス10の3位。
夕方はシャドー1100用の交換タイヤ探しと友人の見送り。LA時代も長くなり、何人もの友人をエアポートで見送った。多くの人は1週間から2ヶ月くらいの短気滞在だ。
2月19日(金)快晴
珍しく日本の友人(安田氏)に3分の国際電話。ホリデースパヘルスクラブへ退会の交渉をすると条件付き(帰国の航空券のコピーを送る)で認められた。
8時間の十分な睡眠をとったにもかかわらず、右ヒザが痛む。今週はバッチリ走ろう(LAマラソンに備えて)と思ったがすでに火、木と休んでしまった。
ランチはおばあちゃん13人の団体が入り、大忙し。
ウイルシャー10kmレース
1988年2月20日(火)晴れ
日曜日のウイルシャー10kmレースの下見を兼ねて15km程ランニング。コースは、ウエスタン・アベニューとウイルシャー・ブルーバードの角にあるウイルトン・シアターを西へ走り、ハイランド・アベニューで北上し、ファースト・ストリートを東進、ウエスタン・アベニュー隣のオックスフォード・アベニューで戻ってくる。10kmを55分もかかってしまった。
週末のディナータイムは時間が長いこともあって、かせぎ(チップ47ドル50セント)になる。
2月21日(日)晴れ
レースの主催は地元の警察。やたら制服警官の姿が目立つ。キャッチフレーズは「ラン・アゲインスト・クレイム88」LAビールがスポンサーについたため、巨大な冷蔵庫がビールを配る準備をしている。ランナーたちは口々に、走る前に飲ませてもらえないのかいとジョークを飛ばしている。
つぶれても良いと言う覚悟で積極的に前半から飛ばした。2週間前のチャイナタウンのレースでは、息が上がらない程度に走ったが、今回はオーバーペース気味に飛ばした。2週間後のLAマラソンにはずみをつけるべく、良いタイムが欲しい。
結果は「42分9秒」と前回より4分14秒もタイムが上がった。かなり自信も付いた。レース後、立て続けてビールを二缶飲み干した。
ベター・ライフ・センターでシャワーを浴びた後、友人とマルホランドへ走りに行った。正月よりマシンの数が増えていた。ロックストアで、バイカーバーガーというのを注文したが、中味はただのチーズバーガーだった。
2月22日(月)晴れ
力いっぱい走った割には足の疲労が少ない。
2月23日(火)曇りのち晴れ
前日からソックスを脱いで素足でジョギングシューズをはいているが、この方が調子が良いようだ。
2月24日(水)曇りのち晴れ
8時前に起きて8kmのランニング。ランチタイム(チップ26ドル25セント)、麻雀、ディナータイム(チップ37ドル)を終えて12時前に帰宅。やや疲れ気味で両足の親指が常にしびれたような状態。
LAマラソンの下見
1988年2月25日(木)快晴のち曇り
かなり疲れているにもかかわらず、出勤前と英会話スクール後にランニング。LAマラソンまであと10日しかない。
ランチタイムはアスカ・レストラン始まって以来の”超”ヒマでチップ14ドル。
2月26日(金)曇り
出勤前にランニング。LAマラソンに合わせて、早起きの練習もしなければならない。
2月27日(土)雨のち曇り
ケンに起こされて外に出ると25日ぶりの雨であたりは濡れていた。この前の雨も16日ぶりとLAらしい天候。オリンピックコロシアムまで元気に走ったが、帰りはとぼとぼ歩いた。
ディナータイムの後、深夜3時まで職人さん達と麻雀。疲れるだけなのでやめるべきだった。
2月28日(日)雨のち曇り
シャドー1100のリアシートにケンを乗せてLAマラソンの下見。南カリフォルニア大学をスタートし、ダウンタウン、リトル東京、チャイナタウン、オルベラ街、ハリウッド街、コリアンタウンをぐるっと回り、戻ってくる一大観光コース。
42.195kmはさすがに長い。モーターサイクルでも1時間45分かかった。2時間ちょっとで走る瀬古選手は偉大だ。
2月29日(月)雨
初めて雨の中でトレーニングした。ぐちゃぐちゃになる感じがとても心地よい。
3月1日(火)雨
夜更かしがたたったのか体が重く、走る気にならない。
3月2日(水)カリフォルニア晴れ
晴天の下、出勤前にランニング。レストランの昼休みに寝るのは良いが起きるのが死ぬほど辛い。
3月3日(木)快晴
フロリダ・ツアーの出発が日一日と近づいている。2月はよく働いたので7週間分の旅費(1,500ドル)はできた。LAマラソンに備えて、体力を付ける食事を心掛けたい。
エアポート・ヒルトン・ホテルでゼッケンや参加賞を引き換えに行った。LAマラソンは強力なスポンサーのおかげで成り立っている。さすがアメリカ式コマーシャリズム。それにしても帽子、Tシャツからビタミン剤、豆腐までいっぱいもらえた。
LAマラソン
1988年3月4日(金)曇り
3度目にLAに来て丸4ヶ月が過ぎた。きたころは、当面の生活が目標だったが、いつしか生活は安定し、LAマラソン完走が目標になっていた。
レースまであと2日。炭酸を避け、体力を調整したい。
3月5日(土)曇り
レース前日、うまいものを食べながら調整に励む。
卓球に熱中するが、ケンにはどうしても勝てない。
3月6日(日)曇り
6時45分起床。体調は上々だ。短いながらも良く眠れたし、痛いところもない。
ケンを乗せて、スタート・ゴールの南カリフォルニア大学に向かうが、駐車場は大混雑。約2万人が走るのだから無理はない。
やや寒いくらいでマラソン日和。片側5車線のフィゲロア・ストリートはランナーに埋めつくされた。体温の低下をさけるために、ビニール袋をまとっている者もいる。
トム・ブラッドレーLA市長やリコーUSA社長のあいさつで、いやおうなしに雰囲気が盛り上がる。フランク・ショーターなど往年の名ランナーも参加している。
スタートは午前9時。ピストルが鳴ったようだが、まったく動き出さない。間違いかと思い、時計を戻すと、やおら一団は歩き始めた。2万人もいるビッグなレースならではで、スタートラインまで2分かかった。
目標は4時間としていたが、1マイル8分ペースで3時間半を狙っていた。走り出してもちっとも疲れを感じず、走ること自体がとても楽しい。沿道で応援する市民も熱狂的で、民族舞踊などを披露している。市民の掛け声は「ユー・キャン・ゴー・イット」と「ルッキン・キュート」が多い。
1マイルごとに注水場があり、スポーツドリンクも配られる。2分出遅れたにもかかわらず、中間地点を「1時間42分」で通過。しかし、オーバーペースと水のとり過ぎでどんどんペースが落ちる。
20マイルの標識を過ぎたころは完全にグロッキーで次の1マイルの標識がなかなか出てこない。腕時計さえ重く感じる。足じゅうが痛く、重い。両足を引きずり、歩くより遅い感じ。それでも42.195kmのゴールを目指した。
前半は応援する市民も多く好調に飛ばせたが、20マイルのコリアンタウンからゴールまでは、人が少なくなる。
42、195kmという距離は、10kmの4、2倍ではなく、まったく未知の距離だった。1日10kmや15kmの練習ではまったくの練習不足だ。しかし、そんなことは言っていられない。何としても完走したい。どうにか4時間ではゴールしたい。
南カリフォルニア大学が見えてきた。残りの体力をふりしぼってラスト・スパートをかけた。ラスト・スパートといっても、ようやく両足のどちらかは地面から離れている程度。あと数100mだが、ここで止まったら二度と動けないと思った。
1時少し前、何とかゴールに走り込んだ。タイムは「3時間57分59秒245」。
足は大いに痛いし、呼吸も乱れている。ボランティアのマッサージがあったので長い列に並んだ。待っていても辛い。ようやく自分の番がきて、マッサージを受けたが、痛みは大してかわらない。
荷物を受け取りに行くと、先にゴールインしたケンがへたり込んで待っていた。シャドー1100で帰ったのだが、足に力がなく、信号待ちがきつい。
ベター・ライフ・センターへ帰り昼寝のあと、ケンと留学生のミツを連れてアメ車でアスカ・レストランへ出かけた。今日はウエーターではない。客として行くのだ。すし職人の見上さんとカケをしていたのだ。見上さんは3時間強で走るランナーだが、私の実力を甘く見て、4時間で走れたらすし食い放題にしてやると言われたのだ。
3人で思い切り飲み食いし、駐車場係のメキシカンにもチップをはずみ、アメ車で帰る気分は最高だった。
LA生活の一番の思い出はできたし、あと1週間働いたらレストランをやめ、約5ヶ月ぶりにツアーに出れる。後で聞いたのだが、約5,000人のランナーは完走できず、バスで帰宅したそうだ。
悪友あらわる
1988年3月7日(月)曇り
42.195kmを完走した直後だけに、ヒザ、モモ、フクラハギとものすごく苦痛だ。
ランチタイムを終えて帰って休もうとするとマネージャーに引き止められた。ディナータイムのウエートレスが急にこれなくなったためピンチヒッターをするはめになった。ウエーターは立ち仕事なので辛い。
3月8日(火)晴れのち曇り
昼・夜ともバッチリ働く。アスカ・レストランは、3人が完走したLAマラソンの話でもちきり。かなり回復したが歩き方がまだぎこちない。かなりやせたようで体重は54kg。
11時過ぎにベター・ライフ・センター帰ると、大学時代の悪友、竹内が友人とともに来ていた。NY、フロリダを回り、LAにやってきたのだ。1年ぶりに会う懐かしい顔が一瞬にして学生気分に引き戻した。
3月9日(水)晴れ
昼、夜で60ドルのチップ。ランチは竹内たちが食べに来たので大サービスしてやった。
3月10日(木)晴れ
サンタモニカ大学のユーコちゃんとサンタモニカ・ピアでデート。
コットン・キャンデー(綿菓子)を食べているとこじきがくれと言うので少し分けてあげたが、最後には全部とられてしまった。
ディナータイムの後片付けをしていると思わず三橋美智也の「達者でな」が口をついて出てしまう。
あと1日で仕事が終わりだと思うとうれしくて仕様がない。
3月11日(金)晴れ
ランチタイムでついにウエーター生活は終わり。
後はメキシコ、フロリダ・ツアーの準備をするだけだ。
念願のタイヤ交換をするためエアポート・ホンダへ急いだ。前後輪合わせて222ドル6セント後輪は2度目だが前輪は45,000km走って、初めてのタイヤ交換。直進性が向上し、ハンドルをぶらしても車体が安定する。ブレーキングもソフトになった。
もう一つうれしいことがあった。8ヶ月前に一度だけオイル交換しただけなのにサービス主任のジェフが私のことを覚えていてくれたことだ。私のツアーの成功を祈ってくれた。
3月12日(土)晴れ
荷物を整理したり、マルホランドあたりを軽く流してのんびり過ごす。半年以上アメリカに住んでいると、すっかりアメリカのリズムになってしまう。
その点、悪友・竹内は日本のリズムを感じさせる。2日前、レンタカーでラスベガスへ行ったかと思うと、グランドキャニオンを回り、LAに帰ってきたのだ。さらに、その足でディスコへ行こうと言う。2,3週間ですべてを楽しもうというパワーには頭が下がる。
ダウンタウンのボナベンチャーホテルのディスコ・ファンタジアへ行くことにした。年齢制限とドレスコード(服装チェック)を電話で確認し、総勢6名が2台の車に分乗。ふだん、着慣れないネクタイと革靴で緊張気味。
ディスコはやや高級で、クロークやトイレでもチップが必要だった。珍しいのでチップを払うのが面白い。1年間の滞在でも初めての体験だ。
イスパニック系のボインの女の子に声を掛けたが、私の英語が悪いのか、彼女は英語が分からないのか、うまくコミュニケーションがとれない。それでも軽く踊ってくれた。
3月13日(日)快晴
9時過ぎにシャワーを浴びに行くと、竹内たちはすでに旅立つ用意をしている。サンフランシスコまで走り、そこから帰国する予定らしい。深夜1時過ぎまで踊っていたとは信じられないパワー。
ウエートレスが送別会を開いてくれるというのでアスカ・レストランで大いに飲み食いした。2人のウエートレスはヤング・ミセスでいままでも数多くの旅行者を送り出したと言う。LAに旅行にくる者。LAで生活する物。私はその中間に位置する存在だ。
3月14日(月)快晴
メキシコ領時間へビザの申請に行ったが、ツーリスト・カードを手渡されただけで何の情報も得られなかった。バンク・オブ・アメリカでトラベラーズ・チェックを購入(1,750ドル)したり、ダウンタウンのマネーチェンジャー(各国通貨を銀行より高率で両替してくれる)でメキシコ・ペソ(150ドル=339,000ペソ)を手に入れ、旅行の準備を進めた。
いよいよ、ツアー

朝食は露天で取ることが多かった。
(メキシコ 3月)
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1988年3月15日(火)曇りのち晴れ
午前中はだらだらと過ごしてしまったが、午後は友人の手伝いもあり、シャドー1100の整備がほとんど終わった。エンジンオイル、フィルター、シャフトオイル、クーラントまで交換し、シートや燃料タンクまではずして手を入れた。45,000km以上走った中古だが、タイヤも新品で気持ちがよい。
AAA(全米自動車連盟)で手に入れたバハ・カリフォルニアの地図を見ながら、約半年ぶりの長距離ツアーに夢をはせる。未知の国メキシコ、バハ・カリフォルニアはどんな所なのだろうか。
3月16日(水)曇り
給料をもらいにアスカ・レストランへ行く。税金が多くて手取りはたった82ドル35セント(2週間分)。
部屋を片付け、寒さに備えてゴア・テックスのグローブも購入した。旅行の準備はすべて終わり。
手持ちの財産をチェックすると、米ドルがトラベラーズ・チェックで1,750ドル、現金で110ドル、メキシコペソ339,000ペソ(150ドル相当)、日本円13,000円。1日30ドル1週間250ドルの計算で7週間は旅ができる。バハ・カリフォルニア半島を南下し、メキシコ本土を北上してアメリカに再入国。そのままフロリダ半島まで行って、LAに帰るくらいは可能だろう。
忙しくも充実したLA時代。違法ながらウエーターや倉庫番などでお金を稼ぎ、アスレチックジムで体を、英会話スクールで頭をきたえた。数々の友人と思い出を作ったLAを後にし、旅に出る。
やはり渡米の目標はモーターサイクルひとり旅なのだ。
EZア・メ・カ
2-11 ロサンゼルス時代(1988年編)
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp
2001.7.29 UP DATE
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