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第2章 全米ツアー

第9期 バンクーバー時代

冬の時代

青空とヘルメット

多民族国家のカナダには各国料理店がダウンタウンを中心に出ている。ジャマイカ料理専門店では、レゲイミュージックがかかっていた。
(カナダ バンクーバー 7月)

 7、8月に訪れたバンクーバーは、最高だった。連日続く晴天。乾いた心地よい風。アフター・ファイブを十二分に楽しめる遅い日没(サマータイムと北海道よりも高緯度にあるため9時を過ぎる)。
 大通りに繰り出す大道芸人たち(音楽演奏家が多い)。私は、第3の故郷だと思い始めていた。
 ここでじっくりと腰を据えて生活することが目的だった。少なくとも半年はとどまって暮らそう。アパートの1室を貸してくれたナオをはじめ、多くの知り合いもできたし、治安の良いことも生活条件の1つだ。100万人都市とはいえ、どことなく田舎の雰囲気が漂い、アメリカの大都市よりはるかに環境が良い。
 バンクーバーには、数多くの日本食料理屋があるし、日本の本屋もある。大都市だけに生活に必要なものはすべて手に入る。バンクーバー新報をはじめ邦字新聞や日本語テレビ放送もある。
 それよりなにより、合法的(ワーキング・ホリデー制度)に働けるのが魅力だった。この理由は、他のいかなる理由よりも大きかったのも事実だった。アルバイトでも半年頑張れば、いくらか貯金もでき、アメリカ南部を回る旅費の足しになる。
 単に生活するだけでなく、英語学校へ通って語学力アップやヘルスクラブへ入会しての体力アップと欲ばった海外生活を夢見ていた。
 しかし、夢はことごとく破れ、冬の時代となってしまった。1カ月足らずでバンクーバーを離れてしまったことがそれを良く物語っている。まず、生活が苦しいというのは何物にもかえがたい苦痛だった。ナオの好意にすがれば、生活していくことだけは可能だったかもしれない。だが、そんな生活に満足することはできなかった。
 この文章を書くために、当時の日記を読み返して見ると、理想と現実のギャップに悩む一青年(当時25歳)の心情が手に取るようにわかる。そして、それが面白いから不思議だ。


デポジット(保証金)

1987年10月10日(土)晴れ

 4時過ぎ、カナダB・C州のイミグレーションに到着。何もかも3カ月前と同じ。インターステイツ5号線が突然渋滞し、カナダの国旗が風にたなびく。違っていることと言えば、どことなく秋の気配が漂っていることだけ。
 15分程並ぶと私の順番になった。イミグレーションの係官は、料金所のようなブースの中から入国に関する質問を事務的に繰り返す。第1の質問は、「あなたは、カナダ市民ですか?」というもの。私の前に並んだカナダ人ライダーは、ヘルメットも取らず「ヤップ!」(はい)と一言だけで走り抜けた。パスポートも免許証も一切見せない。北米をモーターサイクルで旅していると国境の概念がガラッと変わってしまう。
 3カ月前は、パスポートを提示し、観光目的であるというとすぐに入国許可が出たが、この時は様子が違っていた。ワーキング・ホリデーの許可証を出し、労働目的だと言うと、持ち物に対してまで厳しく調べだした。観光客は、外貨を落としていくだけだが、労働者は違う。一種の犯罪予備軍なのかも知れない。
 アメリカ滞在許可証をパスポートから切り離し、ワーキング・ホリデーの書類の裏に1988年1月10日までの滞在許可スタンプを押し、カスタムズ(税関)へ行くように命じた。
 カスタムズでは、アメリカ国内で購入したものとして、シャドー1100、ニューFM2(ニコンのカメラ)、キャンプ用品の申告をした。モーターサイクルには、8%、カメラには7.5%の税率をかけ、アメリカドルで350ドルのデポジット(保証金)を提出するように言われた。この時、持っていたアメリカドルは、T/C(トラベラーズ・チェック)を中心に363ドル40セントだったので、ほとんど没収された形になった。3カ月前の観光目的の時はナンバープレートもないシャドー1100でも何も言われなかったのに、大変な違いだ。カナダに対する印象がグンと悪くなった。
 1時間程で国境を通過することができた。新しい生活が始まるのだ。ただし、カナダ国内でも、アメリカのナンバープレートは変える必要はないと言われた。郵便物や電話も国内扱いだった。


バッテリー・イズ・デッド


1987年10月11日(日)晴れ

 私のすみかとなったナオのアパートは、バンクーバー市の南端にあった。ダウンタウンよりも空港に近かったが、うるさくはなかった。バンクーバー市は、人口100万のカナダ第3の都市だが、あまり大都市という印象は受けない。1km四方程のダウンタウンは高層ビルやホテル、ドーム球場が建ち並び、都会を感じさせるが、すぐ隣には広大なスタンレー・パークが広がる。市の大部分は、きちんと整備された住宅街で、ナオのアパートもその一角にあった。所々に公園があり、民家の芝生や生垣にも厳しい制度が加えられ、手入れを怠ると罰せられる。
 アパートの住所は、8656カティア・ストリートで、街はずれだが住宅環境としては悪くなかった。ダウンタウンまでは、市の中心を縦走しているグランビル・ストリート1本で15分で行けたし、歩いて行ける範囲に、商店、銀行、郵便局とすべてそろっていた。たいていのものは、セーフウエー(巨大スーパーマーケット)と隣の酒類販売所で手に入った。それでいて、静かな住宅街だった。
 カティア・ストリートには、3階建ての鉄筋アパートが並んでいた。ナオのアパートもそのうちの1つの白い建物で、彼の12号室は、3階の奥にあった。南向きの窓からの眺めは、自慢する程のものではないが、夕暮れ時などは美しい。
 2カ月前にイエロー・ストーン国立公園で出会った日系人の吉沢さん一家と会う約束をした。花でも買って出掛けようとするシャドー1100のエンジンが掛からない。バッテリーがあがっていたのだ。ケーブルで継ぐとなんとか回った。
 吉沢さん一家とニューウエストミンスター市のクィーンズ・パークでテニスを楽しんだ。北米では、テニスコートは予約なしで無料で使えるものが多い。土地が広いということは、根本的に生活感が違ってくるものだ。学生時代にテニスサークルで多少やった経験があったので邪魔しない程度に打ち返した。
 中華料理屋でごちそうになり帰ろうとすると、またもバッテリーがなくなった。ついに、寿命かもしれない。


1987年10月12日(月)晴れ

 バッテリーが完全にいかれたようで、アパートで1日休むことにした。キャンプ場やYHと違い、独立したアパートは、ぐっとくつろぎやすい。
 北米のアパートと日本のアパートは、当然のことながら違いがある。まず、第1は、アパートの建物自体がオートロックされており、合い鍵がないと中へは一歩も入れない。アパートの住人とは、入り口のインターフォンで話して開けてもらうシステムになっているものが多い。郵便受けも建物の中にあるため、郵便配達人は各アパートの入り口の合いかぎをジャラジャラと持っている。郵便受けにもロックがあることは言うまでもない。北米は、カギ社会でもある。
 アパートは、6畳・3畳・台所・浴室付きなどという言い方はしない。畳などないのだから、何畳という言い方をしないというのではない。基本的には、寝室の数でワン・ベッドルーム、ツゥー・ベッドルームと表す。ダイニング・キッチンと、水洗トイレがいっしょになったバスルームがあることは当然のこととなっているからだ。大きなアパートとなると、ツゥー・ベッド、ツゥー・バスというのもある。
 日本の都市部で流行しているワンルーム・マンションは、スタジオと呼ばれ、最もランクの下のアパートになる。
 ナオのアパートは、典型的なワン・ベッドルームで、10畳程のダイニング・キッチンと6畳程のベッドルームが、細い長いスペースでつながっていた。広めのバスルームは、お湯がふんだんに使え、快適だった。
 土地が広いくせに、北米のアパートは、ランドリー・ルームが共同のものが多い。ナオのアパートも1階の奥がコイン・ランドリーになっており、ルームナンバーと優先時間が示してある。大量に洗いたい時などは、町のコイン・ランドリーを使うこともある。
 これだけのアパートで家賃はたったの350カナダドル(約4万円=1987年当時)。裏の駐車場は、10カナダドル。


1987年10月13日(火)晴れ

 生活するためにバンクーバーに帰ってきてはや4日目。天気が良いからといって、いつまでも遊んでいるわけにはゆかない。
 とりあえず、シャドー1100のバッテリーを買わなければならない。バッテリーをはずし、9時前にバス(2ドル30セント)でダウンタウンに向かった。
 モーターサイクル・ショップで「バッテリー・イズ・デッド」と言っても、それなら充電してあげようと言われてしまう。いくら「バッテリー・イズ・デッド」と言っても、通じない。後でわかったのだが「デッド・バッテリー」で切れた電池という意味になる。蓄電池が死んだを直訳しても通じないはずだ。どうにか事情を説明し、68ドル90セントでユアサ・バッテリー(日本製)が手に入った。
 充電している間、ダウンタウンをブラブラした。歩いて回るのにちょうど良いサイズだ。直交するグランビルとロブソン・ストリートを軸に行動すれば良い。
 バスでアパートに帰り、シャドー1100に新品のバッテリーを積み込むと、元気一杯にVツインのエンジンは回り出した。足が復活すればこっちのものだ。さっそく、職業安定所で労働者登録の手続きをとった。申請用紙には、暗唱番号として母親の旧姓を記入する。
 近所の日本食料理屋で働こうと面接を受けたが、あまり良い感触は得られなかった。日記にこう書いてある。


「5月の末にTAP(会社)を辞めて足掛け6カ月。消費のみの生活が続き、貯金も底をついてしまった。
 金のあるうちは非常に快適だったが、いざ働こうとすると大変なことだ。ましてや遠く離れた異国だけに、仕事を見つけること自体大変なことだ。
 やはり、人間は日々の労働とともに生きるのが正しい生き方なのだろうか。」

 


就職活動


青空とヘルメット

ダウンタウンを南北に通るグランビルストリートには多くのミュージシャンが演奏している。彼は、おとなしい愛犬をかたわらにハーモニカの演奏を聞かせてくれた。
(カナダ バンクーバー 10月)

1987年10月14日(水)曇りのち晴れ

 とにかく、職を探さなければならない。職探しとは別に日本語新聞に「家庭教師いたします」の広告を出すことにした。バンクーバー新報のオフィスへ行くと、簡単な手続きで次週から4回掲載することになった。ちなみに広告料はたったの5ドル。
 春から夏にかけては、お土産物や観光ガイドを中心に多くの求人があるのだが、9月を過ぎると観光客の数もぐっと減り、オフ・シーズンに入る。英語力には、大して自信がないのでどうしても日本人の所で働くしかない。かと言って、仕事はほとんどない。
 日本やカリフォルニアの友人に手紙を書いたりして気分を紛らわす。手紙を書いていると時間がたつのが早い。それでも、気が高ぶってなかなか寝つかれない。体は疲れていないのに加え、中途半端に昼寝しているので、ますます眠れない。

 10月15日(木)晴れ

 外食すると持ち金がどんどん減ってしまうので自炊がメインになる。ナオのアパートのキッチンは、4台の電気コンロにオーブン、大型冷蔵庫に電気炊飯器もそろっていたので、その気になれば何でもできるのだが、キャンプ生活の延長のようなものばかりになってしまう。ラーメンやゆでたジャガイモにハムエッグ。釜めしなんかはごちそうの部類に入る。
 リッチモンドの免許センターに行くと、半年程度の短い滞在の場合は国際免許で良いと言われた。カナダのお土産程度に考えていたので、とらなくても良いならその方が好都合だ。ブリティシュ・コロンビア州の場合、筆記試験・実地試験とも1回5ドルの受験料がかかるので経済的にも大いに助かった。なにせ、青年失業家(当時、この肩書きの入った名刺を作っていた)にとって5ドルは大金なのだから。
 2カ月前にバンクーバーで後輪を交換して以来、20,000kmを走ったため、すでに丸坊主。強く発進するとスリップしてしまう。職が見つかればタイヤ交換も夢でなくなるのだが。

 10月16日(金)晴れ

 天気が良いというのにどこへ行くあてもなく、ゴロゴロ過ごす。
 バンクーバー新報にでていた日本語補修校の下見に出かけた。バンク−バーの日本語補修校は、土曜日のみ日本の教科書を教えるもので、生徒数は1学年20人前後と決して大きくない。教会かなにかの1部を間借りしたような形になっている。
 求人があったことはあったのだが、教員の仕事ではなく掃除のアルバイト。週1回授業後に掃除するというものだが、とてもそれだけで生活できるわけがない。
 日一日と秋の色が深まるバンクーバーの郊外をひとりでとぼとぼ歩いていると妙にもの悲しくなる。一口で言えば自分の身の置き場がないということだろうか。
 この日は1セントも使わなかった。

 10月17日(土)曇り

 ダウンタウンで週遅れの朝日ジャーナルを買ってみた。日系の書店以外でも、週刊誌程度なら日系食料品店でも手に入る。
 朝日ジャーナルには、種々の社会問題が所狭しと論じられている。あたかも、明日にでも日本が終わるかのようだ。それらの記事を読みながら、つくづく日本はうまくいっていると感じた。もちろん、問題の当事者にとっては、大変な問題かもしれないが、解決できそうな気がするからだ。日本にいるときは、そんなことを感じたことはない。日本を離れひとりで考える時間を持つというのは非常に貴重な体験だ。
 しかし、先住民を武器で追い出して建設した国の社会問題はとても根強い。いまだに、祖先の土地を返せと運動を続けている住民もいるのだ。
 数年前の雑誌でも、暇にまかせて読んでいると時々面白いものがある。特に時代の先端を行くファッション情報誌が面白い。数年前とガラッと様子が変わったかと思えば、意外と進歩していない事柄も多い。
 また、期待の新人レーサーとして中嶋悟(日本人初のF1ドライバー)が紹介されていたりして、出来る人間は新人のころから光っていたのだなあと感心したりする。

 10月18日(日)晴れ

 日曜日なのでダウンタウンで留学生の友達と遊ぶことになっている。
 バンクーバーのダウンタウンには多くのストリート・ミュージシャンが繰り出しにぎわいを見せる。ニューヨークやロサンゼルスのような大都市には、ストリート・ミュージシャンの数そのものは多いかもしれないが、街も大きいのでそれほど見掛けない。バンクーバーの場合、グランビルストリートに集中しているので一層多く感じる。また、彼らの存在を認める気風もあるようだ。
 街で意外な人間に出くわした。ちょうど3カ月前にシアトルのYHで同室になったロバートだ。彼はモントリオールから移り住み、メッセンジャーボーイとしてバンクーバーで働いていたのだ。メッセンジャーボーイの仕事は、会社のオフィスからオフィスまで重要な書類を運ぶことだ。
 ほとんどは自転車を使用する。小型無線機を片手にスイスイとビルとビルの間を走り抜ける。ビルの前の太いパイプに太いバーロックをかけ、書類を持ってかけ上がる。東京だと、モーターサイクルでやっているソクハイのような職業だ。
 彼に何か良い仕事はないかと聞いてみたが無駄だった。
 9時過ぎ、友人とストリップを見に出かけた。バンクーバーはストリップ先進地らしく、狭いダウンタウンの中に何軒もある。車でないと行けない郊外にもある。
 北米のストリップは、ストリップ・バーと呼ばれ、基本的には飲み屋である。その証拠に入場料を1セントもとらない所も多い。飲み屋といっても居酒屋のようなものを想像してもらっては困る。だいたい、北米の飲み屋は、食べ物を一切出さない。出してもポップコーン止まり。ひたすらアルコールを飲む所なのだ。
 ダンサーが曲に合わせて踊り、客はそれを見ながらビールを飲むといった感じで、グラスが空になるとどんどんウエートレスが注文を取りにくる。
 ビリヤード台が置いてある所が多く、安く(100円程度)プレイできる。バンクーバー滞在中に少し練習しようかと考えた。


労働記念日


1987年10月19日(月)晴れ

 週が明け、金もなくなってきたので本格的に職を探さなければならない。バンクーバーに戻ってくる前は、アスレチックジムで体を鍛え、英語学校に通うといった充実した生活を夢見ていたが、現実はそう甘くない。
 50ドル預金しておいたモントリオール銀行へお金を下ろしに行くとどういうわけかキャッシュ・カードが使えない。窓口に相談すると女性マネージャーの計らいで20ドル下ろすことができた。この銀行は口座を開いてから1カ月は預金が下ろせない決まりがあるらしい。また、預金が一定額より低い人は、利息が付かないどころか、逆に手数料を取られる。日本の銀行とは、システムが所々異なるので注意が必要。
 北米の金融機関は進んでいるように思っていたが、少額預金者に対するサービスは日本の方がはるかに良い。窓口では立ったまま長時間待たされるし、預金通帳も電算化していない所もある。行員には一切制服がなく、ラフな感じで仕事をしている。当然、雑誌は置いていないし、ティッシュペーパーもくれない。公共の場所なので禁煙化されているのは当たり前になっている。
 隣りのドラッグ・ストア(薬品を中心とした雑貨・日用品店)にレジ係募集の張り紙があった。日系の店ではなく、就業員も客もすべてカナダ人だが思い切って飛び込んでみた。レジ係の経験はないが、北米のレジ係は日本のレジ係と違って教育を受けていないのでレジを打つのがおそろしく遅い。(例外的に早いベテランもいる)なんとか私にもできるかもしれない。
 マネージャーを呼んでもらい働きたいと言うと、就職申し込み用紙を持って来て、記入するように言われた。用紙には、社会保険番号(申請中)、学歴、経験、自己PR、抱負、語学力などを記入するようになっている。語学力は、英語、フランス語、その他の言語について、読む力、書く力、話す力に分けて評価するようになっている。私は、その他の言語、ジャパニーズのみ、グッドと自信を持って記入したが、当然、採用の通知は来なかった。

 こうなったら片っ端からアタックするしかない。日系新聞に求人の出ていたダウンタウンのラーメン屋に面接を受けに行った。
 メイン・ストリートから少し入った所に「将軍ラーメン」はあった。北米で大ヒットしたテレビ映画「ショーグン」にあやかってつけたのだろう。約束の3時に店に入ると、昼休み中の主人が奥の方から出てきた。悪い人ではなさそうだが、少し目つきが悪く、怒らせると怖そうなタイプだ。
 いくつか、簡単な質問をしたあと、あっさり採用されることになった。ラーメン屋のように単価が安く、忙しい店では日本人の従業員の定着率が低いらしい。その証拠に、オーナー一家以外の従業員はすべてベトナム人だった。
 とりあえず、みそラーメンを食べさせてもらい、仕事開始の5時まで休むことになった。仕事の始まる5時までとても不安だった。飲食店の経験は全くない。強いて挙げるとすれば、学園祭のディスコかライブハウスを手伝ったくらいのものだ。
 私の与えられた仕事は、まずキャベツきざみ。スライスカッターでキャベツをきざみ、大きなボールに入れて水につける。人参とレッドキャベツで色取りし、サラダにするのだ。
 メインは、皿洗い。ひたすら皿を洗い、自動食器洗浄器に突っ込む。
 4時間立ちっぱなしの仕事。正直言って疲れた。終わり近くには食事がでるが、立ったままかきこむので味気ない。
 この日のことは次のように日記に書いてある。


「半年前まで完全週休2日+有給休暇で手取り30万円の彼は、今では時給4ドル50セント(約500円)の皿洗いだ。
 大学卒の25歳が今さら皿洗いというのもみじめと言えばみじめだがこれが現実だ。
 長い人生にこういう経験も良いかもしれない。
 とにかく、貯金はできなくても、飢え死にすることは無くなった。製麺(めん)を覚えればもっと給料ももらえるらしい。技術が身に付くのも悪くない。


働き始めたから
今日が私の労働記念日」

 


1987年10月20日(火)晴れ

 将軍ラーメンの皿洗いの職を得た矢先に、家庭教師の問い合わせが立て続けに2件入った。バンクーバー新報に出した広告が効いてきたようだ。日本語新聞は、日系人社会において重要な情報源となっている。また、駐在員は帰国子女の教育にすこぶる熱心だ。日本側の受け入れ体制の遅れも手伝って、教育熱は高い。そのうち1軒は明日、家へ行くことになった。
 将軍ラーメンの皿洗いに行く前に、職業安定所に寄ってみた。これと言って、めぼしい仕事は出ていなかった。最低賃金の時給4ドルか5ドルのつまらないものばかり。だいたい、職業安定所に求人を出す会社なんて小さくて儲かっていないものばかりだ。
 前日と同じように、5時からキャベツをきざみ始めた。この日は、店主の二男のケンジさんと二人で洗い場をやることになった。ケンジさんは、二輪狂でカワサキZ900とヤマハRZ350を持っていて話が合った。年齢もほぼ同じ。ミソラーメンのミソ作りや製麺場を見せてくれた。ミソにラー油やニンニクなどを入れて両手でかきまぜるのだがぬるぬるして気持ち悪い。製麺(めん)はすべて機械式で、職人芸というものではない。
 日記にこう書いてある。


「ケンジさんはミソを作るときも、メンを作るときも、うちのはうまくないと言っていた。どうすればうまくなるかわからないとも言っていた。プロの業者としては失格かもしれないが、とても正直だ。
 私はケンジさんの半分程しか仕事ができない。とても給料を上げてくれとは言えない。1時間働いて4ドル50セントというのはどこから決まったのかは良くわらないが、同じ時間内にもっと良く働く人間がいるのも確かだ。
 私は(塾で働いているとき)採点がすごく早かったが、あれと似ている。そして、今私は皿洗いが遅い。」

 


家庭教師


1987年10月21日(水)晴れ

青空とヘルメット

グランビルストリートにたむろするパンク野郎。写真を撮ると「ペーパーに使うのか?」と聞かれた。この場合の「ペーパー」とは、新聞のことだった。
(カナダ バンクーバー 10月)

 急に働き始めたからか、妙に疲れっぽい。朝風呂の後、ぐっすりと昼寝をした。どうにか、仕事にありついたものの、この先のバンクーバー生活をどうしようかとあれこれ考える。皿洗いは4時間だけなので考える時間は十二分にある。どう考えてみても、あまり明るい展望は期待できそうもない。
 先日、電話のあった家庭教師に出向いた。シャドー1100の調子は上々だった。学生時代から20人近くの家庭教師をした経験があったが、今回ばかりは勝手が違う。今までは、在日日本人に数学を数えるのが中心だったので、日系二世に国語を教えるのは不安だった。
 4時少し前に到着したマイケル君の家は、典型的な郊外型庭付き一軒家だった。日本人の家は、靴を脱いで中に入る。長く海外生活をしている家庭でもこの習慣は忠実に守られている。
 中学3年生のマイケル君の部屋は、それ程広くなかった。ベッド、本棚、学習机、パソコンが置かれ、壁にはモーターサイクルのポスターがピンナップされていた。
 マイケル君の本名というか日本名は「勝」で、家庭では日本語しか使わないので、会話には問題がほとんどないが、読み書きは苦手だった。小棚の雑誌や小説はすべて英語のものばかり。彼に言わせると日本語は英語より難しいのだそうだ。なぜなら、英語の辞書は1冊だが、日本語は、漢和と国語辞典と2冊もあるから。
 中学3年生の国語の教科書から「新しい文体」のドリルを勧めた。下手な英語混じりの説明ながら、彼は私を気に入ったようだ。母はその場で1時間半として30ドルをくれた。
 皿洗いは、時給4ドル50セントだが、家庭教師は時給20ドルになる。ただし、朝から晩までやれるものではない。それに昼間は学校へ行っているので、夕方から夜にかけてしかできない。
 電話をしておいたように、1時間遅れて将軍ラーメンに入った。家庭教師と夜の皿洗いとの両立は難しい。


将軍ラーメンを辞める


1987年10月22日(木)晴れ

 清水商店で食料品を買い込んだ。食料品と言っても、米・味付け海苔・インスタント吸物といった感じ。手の込んだ料理は作れない。
 バンクーバー新報で新しい職を探したが、全く見つからない。バンクーバーを離れることを真剣に考え始めていた。全米ツアーの南部を回る資金を貯めようと思っていたのに、生活できるかできないかではしょうがない。
 いつも通り将軍ラーメンで皿を洗った。小さい店だけに皿洗い以外にも、キャベツきざみ、米洗い、エビの皮むきもやらされる。ウエイトレスはベトナム人だが、意見が合わない人もいて、ちょっとしたトラベルも起こる。
 裏の洗い場は、オーナーの二男のケンジさんと二人で、やることが多いが、彼とはモーターサイクルなど話が合う。働き始めたばかりで、急に辞めてしまうと彼を裏切るようで少しつらい。
 客が一段落ついたあたりで食事がでる。飲食店の仕事はとりあえず食うのには困らない。9時の閉店間近になると汚れた食器類は流しにつけ、ナベ、カマ、ザル、バケツなどを洗い、仕事が終わる。

 10月23日(金)曇りのち晴れ。
 はっきりとバンクーバーを離れることを決意した。モントリオール銀行へ預金をおろしに行くが、預金がクローズになっていておろせない。女性マネージャーに頼んで28ドル出し、残高は2ドルになった。
 ロサンゼルスのヒロキさんから手紙が届いた。ロサンゼルスの求人欄を同封してもらったが、多くの求人がある。ロサンゼルスならなんとかなりそうだ。
 将軍ラーメンの皿洗いはあまり気分の良いものではない。辞めさせてくれとどう切り出して良いものか、オーナーに都合で辞めさせてほしいと言うと快く辞めさせてくれた。本来なら所得税その他を引かれるのだが、キャッシュで20時間分90ドルを支払ってくれた。
 10時近くにグランビル通りを飛ばして帰るのは妙に気分が良い。不思議なことに行きより帰りの方が寒さを感じない。仕事の後の快い疲れはビールを一層おいしく感じさせる。


旅支度


1987年10月24日(土)曇り

 将軍ラーメンのアルバイトを辞めさせてもらったことだし、バンクーバーを離れる準備を始めなければならない。とりあえず、バンクーバーの友人や知人に電話をした。
 もう一つ、新しいことを始めた。旅行記「アラスカ・ツアー」の執筆だ。渡米前から全米ツアーの写真集を出版したいと考えていたが、具体的には何もしていなかった。バンクーバー新報に友人のヨシが、自転車でカナダを横断したときの手記を載せたのを見て、大きなショックを受けた。文章そのものは大したことはないが、友人の手記が活字になっていることに対してショックを受けたのだ。
 私は暇にまかせて、ノートに文字を書きなぐり始めた。どこかに載せることも出版するあても無いが、とにかく、青いボールペンで一心に書いた。システム・ダイアリーに記入した支出と簡単な日記だけで、当時の事を思い出すものだ。写真も懐かしさを膨らませた。
 夜になると留学生のマサカツが遊びに来た。会うのも最後になるのだろうと二人でストリップバーへ出掛けることにした。バンクーバーの南端のバーは広大な駐車場が付いていた。ナオのアパートからは歩いて数分で行ける。
 いつも通りビールを飲みながらビリヤードを楽しんだ。二人ともあまりうまくないのでなかなかボールがポケットに落ちない。順番待ちしているカナダ人がイライラしている様子が良く分かる。ブツブツ何か言っている。
 土曜の夜ということもあってか、バーは満員だった。若いアベック客も所々でビールを飲んでいる。未成年と思われるアベックが入り口でトラベルを起こした。女の方は目を三角にして店員にくってかかっている。男の方がむしろ止め役に回っていた。店員はブタのような白人で全く動じない。結局、アベックは表へたたき出されてしまった。
 そう言えば、どこのストリップ・バーにも胸板の厚い強そうな店員が一人や二人はいるものだ。マイク・タイソンとチャック・ウイルソンが蝶ネクタイをして立っていると思えば良い。


1987年10月25日(日)雨のち曇り

 秋から春までバンクーバーは雨の季節になる。毎日のようにしとしとと雨が降る。日が長くカラッと晴れた夏とは正反対に、日が短く暗い日々が続く。
 昨夜ストリップ・バーから遅く帰ったこともあり、正午近くまで寝ていた。近くのレストランで友人とランチをとることになっていたので、雨の中をレイン・ウエアを着込み小走りで急いだ。
 正午を過ぎても友人は現れない。結局、1時間近くたってから現れた。正直言って私は時間にルーズな友人に腹が立った。しかし、私は重大なことを見落としていた。10月の第4日曜日のこの日は、サマータイムが終わり1時間遅くなる日だったのだ。
 1年にわたって北米大陸を旅していると、日本での生活では絶対に体験できないことが多々ある。その1つが、サマータイムの切り替えだ。だいたいサマータイム制度そのものの経験がないだけに、その切り替えとなると全くお手上げになる。私は5月のサマータイムになった時も戸惑った。時間に追われる日本人程対応しにくいのではないだろうか。
 同様にタイムゾーンというのも未知の体験だ。モーターサイクルで自由に旅をしている限りは、1時間時計を進めようが遅らせようが大した問題ではないが、腹ペコで中華料理屋へ飛び込んだが、時差の関係で小1時間も待たされた時には閉口した。
 昼過ぎには、将軍ラーメンのケンジさんが遊びに来た。雨も上がっていたので夕暮れのロナアイランドへ出掛けた。ロナアイランドは、空港のあるシーアイランドの北部につき出た中洲でオフロードのコースがある。一般の人にはほとんど知られておらず、標識も出ていない。どのガイドブックにも出ていないが、バンクーバーとは思えないくらい自然の美しい所だ。
 遠くかすむ太平洋に沈む太陽を見ながら、カメラを持っていかなかったことを後悔した。

 10月26日(月)曇り

 また新しい月曜がやってきた。ちょうど1週間前、そう1987年10月19日はニューヨーク株式市場から始まった「ブラック・マンデー」だった。新聞では、明日にでも自由主義経済が音をたてて崩壊するような感じだったが、1週間が過ぎてもこれといった変化はなかった。
 旅に出るとなるとすべての持ち物をチェックしなければならない。いくつか新調しなければならない物もある。サイドバッグもそのひとつだった。
 幸い家庭教師先のタナカさんは、リッチモンドでモーターサイクル用品の卸問屋を経営していた。広々とした倉庫には、バッテリーやタイヤなどがフォークリフト用のパレットに積まれていた。
 倉庫の奥の方から1番大きなサイドバッグ(ナイロン製)を出してきてもらった。色は黒で、銀色のカバーシートも付いており使いやすそうだ。サイドバッグに重量のある荷物をバランス良くつみ込むと重心が低く走りやすい。値段は卸価格で68ドル87セント(タックス込み)。
 夕食はヨシザワさんの家に招待された。もう会うのは最後だろうと本格的な日本料理(なべ物中心)を出してくれた。夏にイエローストーン国立公園でお会いして3回目だというのにすっかり打ち解けあっていた。

 10月27日(火)曇り

 テントを買ったデパート・イートンズのスポーツ売り場へ行った。プラスチック製のポールが傷んでいたので、買いに行ったのだ。店員にその旨を伝えると無償で交換してくれた。全く得をした気分。バンクーバーに帰って来て1番うれしかったことかもしれない。
 食料やバドワイザー(私は嫌いだが、ナオのお気に入りのビール)を買った後、ロトに挑戦していた。ロトとは、北米式の宝くじの1種で、その場で当たりはずれが分かるタイプもある。1枚1ドルだが、当たったりはずれたりしながら結局は小銭を失った。

 10月28日(火)曇り

 洗濯をしたり、身の回りの整理を始めた。翌日には、バンクーバーを離れよう。サイドバッグは新調したし、テントのポールも交換し、シャドー1100の調子も上々だ。―ただし、タイヤは丸坊主。
 近くのロイヤルバンクへT/C(トラベラーズ・チェック)を買いに行った。ロサンゼルスでは、とりあえず知人の家に泊めてもらうことになっていたのでU・S300ドルだけ購入した。それと、冬期カルガリ・オリンピック記念メダルを1つ。長い間、居候させてくれたナオにプレゼントするためだ。現金を渡そうとしても受け取りそうもなかったので、記念メダルをお礼とすることにした。本当は金貨(カナダは、メイプルリーフ金貨でも有名な金の産出国でもある)を送りたかったのだが、予算の関係でカーリング(氷上スポーツの1種)をデザインした銀貨になった。支払いは、ピサ・カードで449.03カナダドル。
 日系新聞に連載されたヨシの自転車によるカナダ横断旅行記に刺激されてアラスカ・ツアーを書き始めて5日目。あと数日で書き上げられるだろう。
 4時から1時間は、マイケル君の国語の先生をして、20ドルを手にした。
 アパートに電話局の請求書が届いていた。北米の電話代はすこぶる安い。市内電話は基本的に無料。長距離電話はかけた日時・時間・相手番号と料金が明記されている。バンクーバーからロサンゼルスまでの国際電話でも27分も話してたったの12.04カナダドル。私のかけた6回分45ドルをナオに支払うとすべてのお礼がきれいさっぱりなくなった。
 夜も更けるにしたがって平日にもかかわらず友人が集まってくれた。それ程、深いつきあいでは無かったが、ウイスキーを持って来る者もいた。
 バドワイザーを飲みながら時間が流れた。何人かは帰って行ったが、深夜1時ごろ記念撮影を行った。写真に写っている5人は、奇しくもモーターサイクル・ライダーだった。
 


バック・ツー・ザ・LA


1987年10月29日(水)雨のち快晴

 午前5時起床。あいにくの雨。土砂降りではないが、いかにも冬のバンクーバーという感じ。
 荷物をチェックし、レインウエアを着込みながら、嫌が応にも緊張感が高まっていくのがわかる。労働許可をもっているカナダを後にし、入国審査の厳しいアメリカへ行こうというのだ。寝ボケまなこのナオに見送られ、シャドー1100を走らせた。
 7時半、西海岸の国境に到着。カナダ側のカスタムズ(税関)へ行き、入国時に支払った350USドルのデポジット(保証金)を返してもらおうとすると現金では返せないと言う。アメリカで購入したモーターサイクルとカメラに対する保証金のはずなのに、現物の有無など調べようとはしない。小切手を送るのでアメリカの住所はないかと聞かれた。仕方ないのでLAの友人ジョンの住所を記入した。2週間後には届くと言うが、郵便局が長期ストライクする国だけに心配だ。
 いよいよ、アメリカ・イミグレーション(入出国管理事務所)による入国審査。係官は大柄な白人で腰にはピストルを付けている。
 入国目的、行き先、滞在期間、日本の住所、カナダでの職業、所持金などを質問された。私の入国目的は1つ。LAで働いてアメリカ南部を回る資金を貯めること。しかしそんなことを言ってしまったら、強制送還されてしまう。1、2週間後には、LAから日本に帰るつもりだと答えた。所持金は、カナダ政府が送るはずの小切手分も含めて700ドルと申告した。
 係官は、パスポートを返し滞在許可書を付けてくれた。驚くべきことに、滞在期間は6カ月。4月29日まで有効なのだ。働くことは別として、南部10州を回る十分な時間が手に入った。
 小雨の降る中を、インターステイツ5号線を南へ南へとシャドー1100のスロットルを開け続けた。

 昼間にシアトルを通過するころには、すっかり青空になっていた。所々に美しい紅葉が見られる。気温は15度程で走っていると寒い。皮ジャンパーの下にダウンベストを着込むと暖かくて良いが、いきなりデブに見えるので困る。
 ボーダー(国境)を通過したころは、1泊2日でLAまで(2,200km)行こうかと考えたが、腰が痛くなってきたので、予定通りポートランドのYH、サンフランシスコのマイク(中国系アメリカ人の学生)のアパートに泊まって2泊3日で行くことにした。
 走行距離が500kmを超え、ポートランド(オレゴン州)に着いたのはまだ1時過ぎだった。あと、300や400kmは進めるだろうが、ここのYHに泊まることにした。
 ポートランドは街の中央をコロンビア川が流れる美しい都市で、とても懐かしい。生まれて初めて国際YHに泊まった所で、2泊もしたのだ。それと会いたい人が住んでいるのだ。3カ月前にポートランドを車で観光させてくれたキャロル・ルイスさんにお礼を言いたかった。
 ここのYHは5時にならないとオープンしない。私はシャドー1100を裏に止め、ベランダでアラスカ・ツアーの下書きをしながら開くのを待った。
 チェック・イン後、フロントからキャロルさんに電話すると、間も無くポンコツのワーゲンに乗ってやって来た。キャロルさんはカリフォルニア生まれのアメリカ人だが、大変な日本通で、日本語を話すだけでなく、毎日ご飯を食べている。日本語だけでなく、ドイツ語、フランス語も話す大変なアメリカ人だ。彼女のアパートでカニカマボコ、ノリ、お茶をごちそうになった後、近くのビール・バーへ出掛けた。
 ここのバーには、100種類もの世界中のビールがあり、サーバー式の生ビールだけで15種類もあった。さらに、味見はタダで、グラスに少しついでもらい、それから注文すれば良い。グラス1杯1ドル。
 二人は、結婚、仕事、日米文化について話した。彼女は30代の看護婦で独身だった。
1987年10月30日(木)曇り

 眠い目をこすりながら6時20分にベッドからはい起きた。この日の目的地は、1,000km離れたサンフランシスコ郊外の学園都市バークレー、冬は日が短いので少しでも早く出発したい。
 これまでも800kmの移動は何回かあったが、1,000kmとなると初めてだ。長距離を移動するためには、いくつかのコツがある。
 第一は午前中に距離を稼ぐこと。太陽が沈みかけてくるとどうしてもライダーは弱気になり、それ以上走る気力がなくなってしまう。
 第二は、スピードを出さないことだ。2〜300kmの短い距離なら1回の給油でブッ飛ばせばそれでよい。しかし、1,000kmともなると給油や食事のロスタイムをいかに短くするかにかかってくる。ハイスピードを出すとどうしても疲れるので休憩時間が長くなる。そのために110km/hを超えず、100km/h以下にならないように注意して走った。
 順調に距離を伸ばし、薄暗くなったころ、ちょっとしたトラブルがあった。ガソリンスタンドで給油しようとポンプの左側に入った時、トヨタのバンがバックして来て、シャドー1100のステップと接触し、あやうく倒れそうになったのだ。カリフォルニア・ナンバー1R25-80から降りてきた白人は、後ろにいた私が悪いと言って全く謝らない。バックする時は後方を注意しなければならないと抗議しても、動じない。
 異国を旅していて怖いのは車が右側通行だったり、赤信号でも右折するということでは無い。異邦人がいったい何を考えているのかわからないということだ。
 午後6時45分、真暗の中、UCB(カリフォルニア大バークレー校)近くのマイケル・フーのアパートにたどり着いた。飛行機の中で初めて出会った時、7月に泊めてもらった時と同じ笑顔と雰囲気で迎えてくれた。
 私がLAの臭いだと思っていたあのタイヤが焼けるような都市の臭いはバークーレーにもあった。それでもカリフォルニアであることには違いない。

 いくらフリーウェーとはいっても、カウル(風よけ)なしのシャドー1100でも1,000kmも走ると疲れる。800kmを超えたころから判断力が鈍ってきたようだ。朝からろくなものを食べていなかったので腹も減っていた(給油時にリンゴをかじってはすぐに走り出すの繰り返し)。
 マイク・フーに中華料理のうまい店を教えてもらい、食事に出掛けた。サンフランシスコ郊外だけに、かなり本格的な中華料理に安くありつける。メニューも英語だけでなく中国語でも書かれている。メン類の好きな私は、タンタンメン、ライス、アンニンドウフを注文した。(6ドル)。
 タンタンメンが運ばれてきて驚いた。スープがなく、白い太いメンに甘ったるい肉ミソソースがかけてあるのだ。どちらかと言うとスパゲティ・ミートソースに近い。所変われば、品変わる。
 金曜日の夜だけあって町には活気にあふれていた。マイク・フーは食事はどうだったかと聞いたので、あまり良くなかったと正直に答えると、彼はすまなそうな顔になった。アメリカでも、お世辞や建前も必要であることを知った。
 疲れていたのでウイスキーを軽く飲み、11時にはソファーの寝袋にもぐり込んだ。

1987年10月31日(土)曇りのち雨

 7時前に目覚めるとマイク・フーも起き出してきた。彼は手慣れた手つきでホットケーキやハムエッグを作ってくれた。
 食事をしながらいろいろな事を話した。彼は日本が保護貿易政策をしていることに不満を持っていた。彼は29歳で医学系の学生で独身だった。結婚するなら中国系かアジア系が望ましい。白人系やラテン系でも良いが黒人系は嫌だと考えていた。
 彼のオレンジ・ジュースのジョークは理解できなかった。私のグラスにジュースをつぎながら「アイム・ソーリー。ジャスト100%」と言ったのだ。日本では、オレンジ・ジュースは10%か20%だが、アメリカでは100%しかないのですいませんという意味。

 前日に1,000kmを走り切った自信からか、サンフランシスコ-LA間の650kmは余裕が持てる。サンフランシスコ湾にかかるベイ・ブリッジを渡ってダウンタウンをひと回りしたのち、LAへ向かった。独立記念日(7月4日)とは違って秋の暗い感じはあるものの懐かしい。
 ランチを食べにバーガーキングに入って、この日(10月31日)が特別な日であることに気付いた。売り娘がすべて仮装しているのだ。そうこの日はハロウィン(万聖節の前夜)だったのだ。
 なんでもアメリカの真似をしたがる日本流通業界は、ハロウィンも商戦に組み入れようとガンバっているが、クリスマスほどは盛り上がっていないようだ。北米では、ハロウィンが近くなると仮装用のグッズが大量にスーパーに並ぶし、無料のカボチャが山積みされる。子供たちは隣近所からお菓子を合法的(?)にせしめられるので楽しくてしようがない。子供に渡すための小分けしたお菓子セットもスーパーで売られている。
 カリフォルニアはオレンジ畑が多い。そして、果樹園は不法入国者(特に中南米人)の安い労働力に支えられている。彼らはとても陽気で私に手を振ったり、大声というか奇声をかけてくれたりする。
 LAに近づくにつれて雨が強くなり出した。レインウエアは着込んだものの、雨で視界も悪く走り難い。おまけにLAの手前からは、名物の大渋滞に巻き込まれ、ホトホトまいった。
 東京あたりだと、3cmも雪が降ると所々で事故が発生し、大渋滞の原因になるが、LAの場合、雪は降らないが、雨が降ると同様の現象が起こる。雨が多い日本では考えられないが、世界は広い。
 暗くなる前には、ウエストLAの友人ジョンのアパートに着くことができた。バンクーバーから2泊3泊・2,200kmの旅で使った費用は、たったの50ドル。(宿泊費、ガソリン代、食事代、ビール代)

 そして、ここから新しい生活がスタートするのだった。



 
 





EZア・メ・カ
2-9 バンクーバー時代
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE