EZ top image EZ A Me Ca by Mike Yokohama

第2章 全米ツアー

第8期 ロサンゼルスでひと休み

春休み気分

 この時期は学生生活にたとえれば、春休みのようなものだった。期間も短く、これといってすることがないのだ。仕事もしないし、勉強もしない。それでいて、ツアーの内容を大きく変える節目だったと言える。
 何もしたくない心境だった。言い換えれば、観光に飽き飽きしていた。6月29日に入国し、初夏から秋にかけて、いくつの都市・観光地・国立公園を見て回ったことだろうか。三カ月たらず30,000km以上走ったことになる。
 チャイナタウンのある街だけでLA、サンフランシスコ、シアトル、バンクーバー、シカゴ、トロント、NYC、フィラデルフィアを数えた。州の数はアメリカ40州とカナダ5州。
 友人宅への長期滞在(と言っても5泊程度)を除いては、ほとんどが1泊のみで移動、移動の連続だった。キャンプしながらの移動は少々きつい。旅を急ぎ過ぎた感じ。やはり、日本人の血というものだろうか。
 こういう時期はゆっくり休んだ方が良い。幸いトラベラーズ・チェックがちょうど500ドル分残っていた。これが尽きるまでひとやすみすることにした。周知のようにLAには、スシ屋・ラーメン屋、牛丼屋をはじめ、あらゆる日本食料理屋があり、日本の味を楽しむことができる。邦字新聞や日本の本屋、日本語テレビ・ラジオがあり、日本語に飢えずに済む。
 この時期は、カリフォルニア州の運転免許にチャレンジし、異国の免許制度や車社会をより深く理解することができた。何から何まで日本のやり方と違い、大いに戸惑ったが、良い経験になった。簡単だと言われるアメリカの免許試験に悪戦苦闘した様子は後でゆっくり書きたいと思う。


11G9295 CA


1987年9月23日(水)晴れ一時雨

 ネバダ州からカリフォルニア州に帰って来たのは、ちょうど昼ごろだった。国境のような検問所(カリフォルニア州は不法入国者が異常に多く、チェックが厳しい)は手で合図され、すぐに通れた。3カ月ぶりのカリフォルニア。ついに戻って来た。
 時ならぬ雨。カリフォルニアは雨が降らないと考えていたので、レインウエアを出さないでいて、かなりぬれてしまった。雨宿りしながら3時過ぎにはアナハイム市(ロサンゼルスから東へ1時間、ディズニーランドがある都市)に入った。シャドー1100を買ったのもここ。なんとなく見覚えのある道だけに懐かしい。それともうひとつ懐かしいものがあった。
 それは臭いだ。3カ月前にLAX(ロサンゼルス国際空港)に降り立った時も感じた独特な臭い。コゲ臭く、ゴムの擦り切れたようなにおい。LAに長くいると鼻が慣れて感じなくなってしまうのだが、この臭いが私にとってLAのイメージなのだ。
 真っ先にシャドー1100を買ったアナハイム・ホンダを目指したが、店は空き屋になっていた。移転先を示す看板も見当たらない。確かに店があった形跡はある。あんなに流行っていた店が倒産するはずがない。私のシャドー1100には、ナンバープレートがまだ付いていない。どうすれば良いのだろうか。
 カリフォルニア州の場合(州によってわずかながら、法律が違う)、新車を購入するとすぐにはナンバープレートが発行されない。遅い時は3カ月後にオーナーの手元に届く。その間は、ノープレートで走っても良い。何かトラブルに遭った時は、店で買った時の書類を見せれば良いのだ。何度も言うようだが、ノープレートの車やモーターサイクルが、市内やフリーウェーを走っているのだ。
 ナンバープレートを店に取りに来た私はどうなるのだろうか。

 なすすべもなく、近くの富士フイルムU・S・Aに行き、たまったフィルムを現像に出した。日本だとフィルムが集められ、まとめて大きな現像所で処理するシステムだが、アメリカでは、町の写真屋がそれぞれ自家処理するシステムになっている。したがった、富士フィルムU・S・Aもあまり大きくない。さらに、富士の現像所は全米でここ1カ所しかない。
 カウンターで頼んでいると偶然、ノグチ社長が通りかかり、私の全米50州ツアーの計画を聞いて、私を励まし、すべて社員割引を適用してくれた。おかげで、フィルム1本4ドル27セント。現像にいたっては半額の3ドル8セントでできるようになった。全米ツアー中に撮った100本以上のフィルムの大半はここで現像したので、どれだけ助かったかわからない。ノグチ社長には本当に感謝している。
 ついているときはこんなもので、旅行中に知り合った友人に電話するとアナハイム・ホンダの引っ越し先がわかった。移転して大きくなったアナハイム・ホンダへ行くと真新しいナンバープレートを受け取ることができた。ツアー中に壊れたプレート・ホルダーも新調し、11G9295 CAのナンバープレートを取り付けた。これで安心してどこでも走れる。(他州で何度かトラブルに遭っている)保険の証書も受け取った。
 友人に会うため、サンタモニカ市へ向かった。友人とは二カ月前にオレゴン州で出会ったHONDA V65マグナのカトウさんだ。彼は全米一周旅行を終えてすでに帰国しているはずだったが、不法滞在していたのだ。
 彼は友人2人とともに現れた。すぐにリトル東京へ行き、すしを食べた。数カ月ぶりのすしは、全く生き返る思いだ。この日は、深夜2時過ぎに友人のホームステイ先にころがり込んだ。

ホテル暮らし


1987年9月24日(木)晴れ

 ブランチは吉野屋の牛丼(どん)にした。日記に「牛丼が食べたい」と書いたようにどうしても牛丼が食べたかった。
 ほとんど日本と同じスタイルだがやはりアメリカ。いくつか違いがある。まず、どんぶりがすべて発泡スチロール製で、プラスチック製のフォークで食べること。ハシは下さいと言わないと貰えない。メニューもビーフだけでなくチキンもある。さらに、コーヒーやコーラも出す。結構、アメリカ人に受けているようだ。
 すし屋は日本人が握っているが、牛丼屋は日本人以外が多い。アジア系の労働者が多かった。
 トーランス市にあるニコンU・S・Aに故障したスピードライトを持ち込んだ。直るまで数日かかると言われたが、旅行中なのですぐにやってくれと言うと、約1時間で直った。さらに、修理代は請求されなかった。
 昨夜は、無理矢理知人の部屋に泊めてもらったのでホテルを探した。LAには安ホテルが多い。ダウンタウンはずれのブランドンホテルは1週間でタックス込み72ドル15セント格安だった。少々、臭いのは難だが、個室で水道・冷蔵庫・電気コンロがあり十分だった。中には電話を引き住んでいる者もいた。
 安ホテルは臭いだけでなく、治安の悪いのも覚悟しなければならない。2つのカギとチェーンロックがあったが、用心するに越したことはない。
 このホテルは日本人旅行者が多く、日本人スタッフもいるので、1週間のホテル暮らしを楽しむことができた。
 夕食は、ヨコハマラーメンでとった。とてもうまく、日本で食べるものと比べてもうまい方だろう。LAほどになると、リトル東京以外でも日本食料理屋の数が多く、それに伴って質も良くなるものだ。
 この時期は、精力的にお好み焼き・カレーライス・すしなどを食べ歩いた。


1987年9月25日(金)曇り

 連日の寝不足のため、長めの昼寝をとった。程度に騒がしいホテルは眠りやすい。
 アナハイム市で出しておいたフィルムを受け取ったが、落ち込み気味のツアー内容だけに写真にも迫力がない。精神状態は確実に写真に現れる。
 アナハイム・ホンダでオイルフィルタとエアフィルタを仕入れた。人件費の高い北米では、簡単な点検・修理は自分でするのが常識になっている。モーターサイクルショップは1軒1軒が巨大なのでたいていの部品が揃っている。それぞれの店がちょっとしたパーツセンターといった感じ。土地代が安く、物が届くのに時間がかかるアメリカらしいシステムだ。
 反面、一般人が点検・修理するため、車のオイルもれなどはなかば常識化している。そのため、オイルで汚れていない駐車場を探すことはできない。大きな駐車場だと、どこかの車からオイルがたれていると思って良い。
 オイルも格安で、クォーターギャロン(約1リットル)が100円以下で手に入る。それも、一般のスーパーマーケットで売られている。車が生活必需品となっている北米では、オイルと洗剤は同じような商品と見られている。スーパーマーケットの大きな買物ワゴン車に、肉・野菜・牛乳などといっしょにオイルを突っ込んでレジに並ぶのだ。
 ホテルに戻って、ランドリールームで洗濯した。北米の洗濯機は、ほとんどすべてが全自動式。コインランドリーだけでなく、一般家庭のものも全自動式だった。
 一般にアメリカ人は質素な服を着ている。特にLAのように変化の少ない所だと年中似たようなものを着ている。ほとんどの衣類は全自動洗濯機に突っ込み、ごく1部のオシャレ着だけクリーニング屋に出すようだ。
 50セントの乾燥機代をケチるため、部屋につるしたが空気が乾燥したLAだけにすぐに乾いた。

アースコット・レース・トラック


1987年9月26日(日)晴れ

青空とヘルメット

ひとつのレジャーとして定着している感じ。
土のコースが主流。
(カルフォルニア州 9月)

 この日初めてモーターサイクルレースを見に行った。
 トーレンス市にあるアスコット・レース・トラックは小さく見えたが一周ハーフマイル(約800m)もある。イスは赤く塗られた木製だが、かなり古くはっきり言ってボロ。観客席はメインスタンド側しかなく、ナイター照明は思ったより暗かった。(EV値6〜7)
 レース場というと鈴鹿サーキットや富士スピードウエーのように舗装路を想像しがちだが、アメリカのそれはダートコースが多い。有名なライダーの多くは、ダートレース出身者だ。F1レースの主戦場はヨーロッパで、アメリカはやや文化が違いドラックレース(ゼロヨンレース)やダートレースが主流だ。荒野を旅した西部開拓時代の精神が続いているのだろうか。それでいて、パリ=ダカールレースはほとんど報道されていないのだから不思議な国だ。
 モーターサイクルのレースの観客といえば、暴走族まがいの兄チャンばかりだと思っていたが、子供から老人まで老若男女が見に来ている。おばあさんもいるのだから驚いてしまう。幅広い層に支持され、レース主体もスポーツとして確立している。客席だけを見ると、モーターサイクルレースなのか、バスケットボールゲームなのか区別がつかない。
 駐車場も、モーターサイクルより乗用車の方が多い。中にはキャンピングカーやコンボイも混じっている。レースはホンダとハーレダビットソンの戦いとなり、なんとハーレーダビットソンが勝った。転倒したりするとイエローフラッグが振られレースが中断するため、意外と時間がかかる。7時に始まったレースも終わったのは11時を過ぎていた。完全な車社会のLAでは終電時刻など無縁だ。
 新型Honda V65マグナの抽選にははずれたが、17ドル(入場料)以上の価値はあった。夜が更けるにつれて気温がグングン下げるので温かい服を用意して出掛けた方が良いだろう。LAは元々、大陸の砂漠だったのだから。


リトル東京


1987年9月27日(日)晴れ

 昼寝のあと、ダウンタウウンで買い物をした。LAのダウンタウンには、有名なリトル東京がある。ここにはあらゆる日本がそろっている。たいていのものは日本語で手に入れることができる。
 特に、リトル東京スクエアのヤオハンは異常とも言える。豊富な日本食品は、ちょっとしたマーケットなど足元にも及ばない。さらに、四社ともそろったビールなど、日本で買うより安いものもある。牛肉にしても、ステーキ用の厚切りだけでなく、シャブシャブ・スキヤキ用の薄切りものが日本人向きに並んでいる。
 食品に限らず、すべての日本製品がそろっている。使い慣れた医薬品もあるので安心。もちろん、ほとんどが舶来品なので割高なのはしょうがない。
 リトル東京スクエア内には、日本映画専門の映画館が2つもある。多くのものは、英語の字幕スーパー入りで上映している。字幕は、日系アメリカ人を中心に喜ばれている。それよりも、日本映画を英語の字幕スーパー入りで見るということは、日本国内ではまず不可能であり、異次元体験と言える。さらに、大変英語会話の勉強になるのがうれしい。
 1階の旭屋書店には、主な雑誌がそろっている。注文するとすぐに航空便で取り寄せてくれる。LA各地に日系書店があり、活字にうえずにすむのはありがたい。日刊新聞も2紙ある。LAに住んでいると別にどうとは思わないが、地方に旅に出ると活字が恋しくなる。成人した後渡航すると、なかなか日本語からは離れられないものだ。
 夜はLAX(ロサンゼルス国際空港)へ、カトウさんを見送りに行った。数カ月前に滞在期限は切れていたが、出国する際には何も言われない。入国する際はいろいろ聞かれることがあるが、出国する人は関係ない。LAXは、リトル東京から車で1時間程の所にある。


免許にチャレンジ!


1987年9月28日(月)晴れ

青空とヘルメット

何もかも巨大なアメリカではモーターサイクルショップも巨大。店の数は極端に少ない。パーツも各店が大量にストックしている。
シャドー1100を購入したアナハイムホンダカワサキの広い店内。
(カルフォルニア州 10月)

 カリフォルニア州の運転免許を受けにサンタモニカ市へ足を運んだ。試験は各地にあるDMV(デパートメント・オブ・モーター・ビークル=日本の運転免許試験場と陸運事務局を合わせたような役所)で簡単に受けることができる。
 受験料はとても安くたったの10ドル。これには、筆記試験代、実地試験代、免許写真代、免許郵送代が含まれている。それも、複数の種類を同時に受験しても良い。私はクラス3(普通免許)とクラス4(自動二輪免許)と同時に受けた。
 身分証明は、パスポートでOK。筆記試験は事務所の一角に区切られたカウンターで立ったまま受験する。制限時間はなし。いつ始めても良いし、いつやめても良い。できた人は試験官に試験用紙を提出し、その場で採点してもらう。すぐに合否を判断され返される。
 私のような外国人は、英和辞書を持ちこんでもかまわない。何から何までシステムが違うことに戸惑いながら、クラス3とクラス4のマークシートにチェックを入れ始めた。
 1時間以上、辞書と格闘し用紙を試験官に提出した。採点の結果は、クラス3、4とも不合格。勉強してから来るように言われ、正解を書き込んだ用紙を返された。
 資格試験でミスしたのは生まれて初めてだったので大変なショックだった。
 あらかじめ、数枚の問題用紙は手に入れ勉強していたのだが、完全にはつかんでいなかった。カリフォルニア州の場合、問題用紙は5種類しかなく、試験後返してくれるので丸暗記すれば一発で合格できる。辞書のスミに答を書いて受験する者も多い。
 根が真面目な私は真正面から問題にぶつかったが、問題の意味の解釈の違いで落とされてしまった。しかし、落ちるということは、まことになさけないものだ。

1987年9月29日(火)曇り

 髪がだいぶ伸びたので思い切ってパーマをかけることにした。LAともなると日本人が働いているパーマ屋がいくつもある。さらに、ヤマノ・ビューティ・カレッジという日系の美容学校がある。ここへ行くと割安でパーマをかけることができる。日本人だけに丁寧で、日本人の髪質向きの用具を使うので仕上がりも良い。パーマ代は16ドルだったが、アメリカなので2割ほどチップを渡した。
 運転免許試験の勉強をしてから、サンタモニカ市のDMVへ向かった。前月と同じようにクラス3(普通免許)とクラス4(自動二輪免許)の筆記試験を受けた。
 結果はクラス3は不合格、クラス4は合格。さらに、1時間ほど勉強したあと、オーラル・サイン・テストを受けることになった。
 この試験は、ヘッドホンをつけ日本語によるものだ。交通標示を見てテープの内容に対し○×をつける。この日本語が妙に変で、日系二世がしゃべっているようだ。さらに、スピードが遅過ぎて聞いていてイライラする。設問はとてもシンプルでストレートなものだが、日本人の私は神経質に裏読みして、不合格になってしまった。アメリカの試験には、うすぎたないひっかけ問題はない。
 日本語によるオーラル・サイン・テストも落とされ、あすまた来るように言い渡された。なさけなさとあいまって、頭痛がしてきた。こんな気分は受験生の時のようだ。
 日記にこう書いてある。

「きのうは、また、あすもDMVへ行かなければならないと端から受かることを考えていたが、今ではあす落ちたらもう一度初めから受け直すことになるという心配がでてきた。自分でも信じられない。
 周りの人々は思い思いに楽しんでいるのに私は頭が痛い。」


 夜は気分直しに、ウエストウッドに映画を見に出かけた。


1987年9月30日(水)晴れ

 いよいよ3回目のチャレンジ。前日にクラス4(自動二輪免許)は合格しているもののクラス3(普通免許)に落ちると、最初から受け直さなくてはならなくなる。もう1度、勉強し直してからサンタモニカ市のDMVへ向かった。
 昼過ぎ、三度目の正直でやっと合格。続くオーラル・サイン・テストもパスし、晴れて仮免許を手に入れた。
 カリフォルニア州の場合、筆記試験に合格すると仮免許が交付され、路上で練習しても良いことになっている。日本の仮免許とは違い、筆記試験だけで路上での運転が許可されてしまうのだ。
 もちろん、乗用車の場合は助手席に経験者が乗ることが条件になっている。それでも、1度もハンドルを握ったことのない人が路上で練習しても良い。二輪車にいたっては、夜間、二人乗り、高速道路走行は制限されているものの、いきなり大型のものに乗ってもかまわない。極端に言えば、筆記試験に合格したその足で1,340ccのハーレーダビットソンであろうと、6気筒のHonda CBX1000に乗っても良いのである。しかも、ヘルメットなしで。
 何度も何度も落ちたが受かってしまえばこっちのものだ。もう、受験勉強はしなくても良い。1週間のホテル暮らしを切り上げ、知り合ったばかりの友人のアパートにやっかいになることにした。正式な引越しは明日だが、大半の荷物は移動しておいた。
 9月の終わりから10月のはじめにかけて、猛烈に暑い日が続いた。真夏より暑い。実際、気温40度という史上2、3番目の暑さを記録した。北米では、秋口に急に暑さがぶり返すことがある。これを突然襲ってくる暑さということで「インディアン・サマー」と呼ぶらしい。ダウンタウンの安ホテルは寝苦しく、夜中に目が覚めた私は、ベッドのシーツを水でぬらして眠りについた。

1987年10月1日(木)晴れ

 午前7時45分。突然の地震。地震に慣れている日本人の私は別に何とも思わず眠り続けた。なにせ、ベッドに入ったのは2時過ぎなのに加え、異常な暑さで目が覚めているのでろくに寝ていない。ただ、心配だったのは、棚に載せてあったカメラバッグが落ちやしないかということ。
 地震の少ないアメリカでは大パニック。女性の中には悲鳴を上げるものさえいた。後日、アメリカ人(中年女性)との間にこんなやりとりがあった。
「地震は怖くなかったですか。」
「いいえ、別に怖くありません。」
「どうすれば、怖くなくなりますか。」
「私は日本人なので慣れています。」
「私があなた程の年齢だったら泣いていました。」
 地震を体験したことのない人にとって、大地がゆれることはこの上ない恐怖かもしれない。
 日本だとエレベーターには、必ず、地震・火事の時は使用しないでくださいと書いてあるが、アメリカのそれは火事のことしか書いていない。それだけ地震が少ない証拠だろう。
 一部の古い建物が倒壊し、けが人がでたと報道された。私の泊まっていたブランドン・ホテルもかなり古く、シャワーとエレベーターが使用できなくなった。もっとも、エレベーターはそれでなくても不気味だったので使用を避けていた。さらに、ホテル暮らしも切り上げ、友人の高級セキュリティ・アパートに居候することになっていたのでどうでも良いことではあったが。
 昼過ぎ、サンタモニカ市のDMVへ行ってみたがキャンセルがなく、実地試験は受けられなかった。本来は、予約してから実地試験を受けるのだが、2週間以上待たされてしまう。キャンセル待ちで受けることにしたが昼過ぎでは遅すぎた。明日は、朝一番でキャンセル待ちで並ぶことにした。幸い居候先はDMVに近い。

1987年10月2日(金)晴れ

 7時前に起きて、すぐにサンタモニカ市のDMVに向かった。キャンセル待ちで実地試験を受けるためだ。前夜に友人の車と私のシャドー1100を交換し、四輪車試験から先に受けることにした。
 日本で正常な市民生活を送っている人には、にわかに信じられないかもしれない。カリフォルニアの実地試験は、受験者が持ち込んだ車をそのまま使用する。受験者は自ら車を試験場に持ち込んで試験を受けるシステムになっている。
 したがって、試験場には試験車は1台もない。試験官の助手席には、専用のミラーもブレーキもない。特別なペイントもランプもない車で、いきなり公道に走り出して試験する。新車のベンツで受ける人もいるし、ボロボロのフォードを持ち込む人もいる。小さい車だろうと、オートマチック車だろうとかまわない。それは、運転する本人自身が決めることなのだ。
 朝一番から並んだかいあって、すぐにキャンセル待ちで試験を受けることになった。
 走り出す前に簡単なチェックがある。ウインカー、ヘッドライト、ブレーキランプ、ホーン、そして、手合図(右左折)ができるかどうか。私が借りた友人のHonda アコードは左のヘッドライトが切れていた。エディ・マーフィ似のサングラスをかけた試験官は、
「ノー・グッド。バイバイ。」
と言い放った。
 弁解することもできず、DMVを後にした。整備不良で試験中止とは、なんともはや情けない。万事、好い加減と思われているアメリカだが、意外とシビアなところもある。ブレーキランプの片方が切れていても試験は受けられない。強制保険のシールも張っておかなければならない。簡単に取れると聞いていたアメリカの運転免許だが、こんなにうまくいかないのは私だけではないだろうか。
 車は明日にでも修理に出すことにして、友人とチャイナタウンで夕食を楽しむことにした。


ウエスト・コースト・ビーチ


1987年10月3日(土)晴れ

 土曜日は、DMVは休み。週休二日制のアメリカでは、ウィーク・デー(月曜から金曜)とウィーク・エンド(土曜・日曜)とがかなり違う。ウァーストフードやスーパーマーケットは平常通りだが、銀行・役所関係を中心にすべて閉まる。日本もそうなりつつある。
 暑い日だったので、友人と海水浴に行くことにした。近くのサンタモニカ・ビーチは家族連れが多いので、ビキニ美人の多い(?)ハングントン・ビーチまで足を伸ばした。
 海水浴場は、泳ぐ人だけでなく、サーフィンをする人も交じっている。広いので事故は起こらないだろう。
 気温は高く暑いのだが、太平洋の水温はかなり低く、泳ぐことができなかった。それでも、多くのアメリカ人は泳いでいたので、彼らは寒さに強いのかもしれない。横目でビキニ美人を追いながら、浜辺の甲羅干しを楽しんだ。
 日本食もほとんど食べたので、コリアンタウンへ行ってコリアン・バーベキューを食べることにした。焼肉・カルビ定食とビールで1人13ドル(税・チップ込み)と手ごろな料金で満腹になった。肉の他にキムチ類が5皿もつく。
 LAには、リトル東京、チャイナタウン、ベトナム村をはじめ、多くの少数民族コミュニティーがあるが、コリアンタウンが面積ではとびきり大きい。その中には多くの焼肉屋があるが、ウエスト・ブルバードの又来屋(ウー・ライ・オク)は一流だ。

1987年10月4日(日)晴れ

 インディアン・サマーで10月というのに夏以上に暑い。DMVは休みなので、試験を受けることができない。すしでも食べて、明日に備えるしかない。
 居候先のアパートは、大きなバスタブがあるので、ゆっくりつかると本当にゆったりできる。安ホテルだと、シャワーだけなので、風呂に入った気がしない。アメリカ人は朝シャワーを浴びるスタイルだが、私は夜、風呂に入るのが好きだ。


いざ!実地試験


1987年10月5日(月)晴れ

 早起きして、サンタモニカ市のDMVへ急いだ。キャンセル待ちで試験を受けることになったが、突然、ブレーキランプがつかなくなった。ヘッドライトはしっかり交換修理しておいたのになんてことだ。慌てて接触をチェックするとなんとか直り、受けることができた。
 試験コースは、比較的交通量の少ない住宅街を中心に設定されている。距離としては10キロもない。右左折や安全確認など基本的な運転技術がチェックされる。右側通行にはすっかり慣れているので、運転操作自体は何の問題もなかった。
 しかし、結果は不合格。主な理由は、右折が大回りすぎることと、スリー・ポイント・ターンの意味の取り違い。スリー・ポイント・ターンとは、1回切り返してUターンするものだが、私は3回も切り返してしまった。いくらアメリカだからといっても、楽すぎることを言うとおかしく思ったが、単に私の勘違いだった。それと、縦列駐車では坂道を想定し、ハンドルを切って止めるように言われた。
 一発で受かると思っていたのに、またしても落とされてしまった。そろそろLAを出て、バンクーバーへ行こうと思っていた時期だけにショック。明日は受かるだろうと考え、バンクーバ行きの準備を始めた。
 LAに帰ってきたとき持っていた500ドルは、底をついていたので、近くのバンク・オブ・アメリカへ行ってT/C(トラベラーズ・チェック)を買った。T/Cは、どこの銀行でも、ビザ・カードやマスター・カードで簡単に買える。クレジット会社から後日、日本の口座に請求があるのだが、手数料の関係で1割程、割高になる。日本にしっかりした協力者(例えば両親)がいれば、アメリカに銀行口座を設けて、そこに送金してもらうのが得策。私のように、ひとり旅の人間は、旅行費用の全額をT/Cで日本から持ち出した方が良いかもしれない。
 とりあえず、2週間分の生活費として、50ドルのT/Cを9枚買っておいた。


1987年10月6日(火)霧のち晴れ

 濃霧の中、DMVに並んだ。さっそく、キャンセル待ちで実地試験にチャレンジすることになった。昨日言われたことを頭の中で整理し、軽快にHonda アコードを走らせた。試験官の指示する英語もきちんと聞き取れる。スムーズにシフトチェンジをこなし、スリー・ポイント・ターンも間違えず、DMVに戻って来た。
 当然、合格すると思っていると試験官の判定は非情にも不合格。理由はスピード違反だった。交通量の少ない試験コースをつい調子に乗り過ぎて、オーバー・スピードになっていたのだ。それと、踏切では止まる必要はないが、スピードを落とすように言われた。(北米では、鉄道の使用頻度が極端に少なく、踏切では止まってはいけない。極東の島国の習慣で止まって左右の安全確認でもしようものなら追突され命の保証はない)。
 実地試験も2度目の不合格。運転ができないわけではないだけに余計に悔しい。いつになったら免許を取れるのか。それより、もう一度落ちたら筆記試験から受け直さなければならなくなる。
 トポトポと居候先に帰り、シャドー1100のメンテナンスをした。アラスカ・ツアーから帰った時程ではないが、それなりに傷んでいる。すでに、30,000kmも走っているためエアフィルターやシャフトオイルも交換した。エンジンオイルは4度目の交換となった。各部のネジも締め増しし、スペアパーツも確認して揃えた。スペアパーツといってもきりがないので、ヘッドライト・バルブ、ウインカー・バルブ、左右レバー、ネジ類程度。ホンダ・ディーラーは全米にあり、パーツも容易に手に入る。
 日本で30,000kmも走ったモーターサイクルはポンコツだが、3カ月前に新車で購入し、フリーウェーを中心に走って来たため、そうは見えない。ブレーキパットも新品に近い。ただ、タイヤは2度目の交換時期になっていたが、予算の都合で先伸ばしすることになった。
1987年10月7日(木)曇り

 もう、あとがない。3回落ちると、最初から受け直さなければならなくなる。覚悟を決めて8時のキャンセル待ちに並んだ。
 なかなか、キャンセルがない。1時間も待たされ、8時57分から実地試験が始まった。8度目のDMV、注意された点を良く守って、今日こそは合格するぞ。ハンドルを握る手が妙に汗ばんで、滑りやすい。
 前日とほぼ同様のコースと課題をこなし、9時11分にDMVに戻ってきた。試験官のおばさんの表情には、不満の色は見えないが、なにせ外国人の感情はつかみにくい。
 果たして、合格。
 ついにクラス3(普通自動車免許)に合格。カリフォルニア州発行の運転免許を手に入れることができた。窓口で手続きをすると、何かの手違いで免許証用の写真を撮られてしまった。私はクラス4(自動二輪)も受けるつもりだったが、係官の勘違いで終了したと思われたのだ。
 おかしいと思い、予約係で聞くと、写真係にクレームを言うように言われたが、並ぶのが面倒なので帰ってしまった。(アメリカは、銀行、郵便局、役所、買い物と何かと並んで待たされる。一説には、人生のうち5年は並んで過ごすそうだ)。
 免許証は約10日後に郵送されるが、それまでは写真なしの用紙で代用できる。郵送先は、居候の住所を借りた。
 明日には、カナダ・バンクーバーへ向けて出発することになっていた。車を貸してくれたヒロキさんといっしょにサンフランシスコまで行くことにした。彼は渡米直後、サンフランシスコでホームステイしながら英語力をつけ、LAの宝石学校を卒業した。
 サンフランシスコは、バンクーバーへの通り道にある。旅は道連れ、世はなさけ。3カ月前の同じコースを、車とモーターサイクルで旅をするのも悪くない。

バンクーバーへ北上


1987年10月8日(木)薄曇り

 友人のヒロキさんと旅に出ることになっていた。彼の目的地は650km離れたサンフランシスコで、私のそれは2,200km離れたカナダ・バンクーバー。
 それにもかかわらず、午前中にクラス4(自動二輪)の実地試験を受けることにした。シャドー1100でDMVに乗りつけたが、受けることができない。前日、写真係のミスで試験が終了したことになってしまっていた。並んでクレームをつけるべきだったのだが、並ぶのが嫌で帰ってしまったのだ。10ドル払って、最初から受けろと言われた。
 私はライダーなので、クラス3(普通免許)は必要ではない。ほんのついでに取ったのだが、本命のクラス4が取れないのではしょうがない。しかし、日本で取得した国際免許でカナダ・アメリカを走り回っていたのだから、カリフォルニア州の免許を取ることもなかった。ほんの社会勉強とお土産のつもりだった。(現場のポリスマンの中には、国際免許を認めない人もいるので、長くいる人は免許を取得することを勧める)。
 ヒロキさんのHonda アコードにすべての荷物を積み込み、リトル東京で食事をとった。焼肉とビールをたらふく食べた。ようやくLAを出発したのは、すでに午後2時を回っていた。
 背もたれ代わりの山積み荷物がなく、車とのツーリングは変な気分。2時間程、インターステイツ5号線を北上し、ガソリンを補給しようとしてトラブルに気付いた。日記にこう書いてある。


「FWY(フリーウェー)の道端のモーターサイクルの陰で、1人腰を下ろして書いている。
 荷物はすべて車の中だ。地図すら持っていない。いつも1人で走っていたせいもあり、伴走者をおざなりにしすぎた。50km手前のEXIT(出口)では確かに近くにいたはずなのに、その後100〜120km/hで走っていて、何台か追い抜いているうちにわからなくなった。当然ついてきていると考えていたのだ」

 小1時間待っても、彼のアコードは現れない。手早く給油し、反対車線を探しながら戻った。数km先で彼と会うことができた。
 事情を聴くと、大変なトラブルが起こったことがわかった。インターステイツ5号線を走行中に左後輪がバーストし、2回スピンしながら路側帯に出て止まったらしい。そのわきを大型トレーラーが通ったので、それに巻き込まれていたら、現在の彼は存在していなかった。
 そんなこんなで、目的地のサンフランシスコにたどりつくことができず、手前のストックトンという小さな町のモーテル6(ガイドブックなどに書かれている程、安くて良いモーテルではない)にチェック・インした。
 近くのデニーズ(日本のデニーズの方がメニューが豊富)でステーキとワインの夕食をとったが、2人とも疲れが極度に高まっており、すぐに眠り込んだ。



1987年10月9日(金)晴れ。
 すっきり目覚め、シャドー1100にすべての荷物を積み込んだ。ヒロキさんと別れ、北へ向かった。2週間ぶりの本格的ツアーのため、荷物の重みをずっしりと感じる。気温は20度前後で、少し寒く感じた。
 目的地目指してどんどん走るしかない。10月ともなると日が短くなる。7時には、オレゴン州北部でモーテルを探した。トラッキン・トラベルという一風変わったモーテルにチェック・インした。このモーテルはトラック野郎専用のため、駐車場が巨大に広い。付属のレストランの一角もトラック野郎専用の所があり、荒くれ野郎がポーカーなどをやっている。シングルルームでもベッドは広すぎる程大きかった。
 売店で珍しいものを手に入れた。不幸の2ドル札だ。発行量が極端に少なく、実質的には使われていない。そのため、これを持つと不幸になるとされている。

1987年10月10日(土)晴れ

青空とヘルメット

カナダとアラスカの国境。カナダとアメリカ本土の国境はもっと大きく厳重。
(アラスカ州 7月)


 7時半起床。900km走った疲れもとれて、すっきり目が覚めた。かなり寒かったので長ソデのトレーナーを着込んだ。
 すぐに出発しようとシャドー1100にまたがったが、エンジンがかからない。バッテリー液が蒸発し、電圧が低下している。寒い朝でもあり、全く回らない。慌てて水を補給するとバッテリーは生き返った。
 10時過ぎ、オレゴン州ポートランドからコロンビア川を渡り、ワシントン州バンクーバー(アメリカにもバンクーバーという小さい町がある)に入った。
 3カ月ぶりのワシントン州。あと500kmでカナダのバンクーバー(バンクーバーB・C=ブリティシュ・コロンビア州と表現することがある)に着ける。紅葉している樹木が季節の移ろいを感じさせた。温暖な西海岸とはいえ、緯度的には北海道より北だ。朝方の8度からかなり気温も上がり20度になったが寒さを感じる。
 順調にインターステイツ5号線を北上した。入国審査に備えて、常に腰につけていたナイフをバッグにしまった。
 午後4時過ぎ、イミグレーション到着。2カ月ぶりのカナダ西海岸。6月に渡米して以来、3カ月以上旅から旅の生活だったが、これからは違う。
 カナダではアルバイトをして(労働許可はワーキング・ホリデー制度でとってある)生活する。直ちに新しい生活が待っているのだ。バンクーバーには気の合う仲間もいる。ナオのアパートの1室を借りて住むことも決まっている。
 初めて西海岸を縦断したときは、観光しながら2週間もかかったが、今回は2泊3日(といっても初日は出発したのが2時過ぎだった)で走り切ってしまった。天候に恵まれた西海岸の2,000kmは、2泊3日の移動にはちょうど良い距離だ。



 
 





EZア・メ・カ
2-8 ロサンゼスルでひと休み
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE