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第2章 全米ツアー

第6期 ロサンゼルスに戻る

2度目の大陸横断

 渡米してはや3ヶ月目。夏のアラスカを走り、大陸を横断し、NYへたどり着くことができた。正直言って少々、疲れていた。あまり感動していないのが不思議だった。
 LAでシャドー1100を買ったころは初夏から盛夏へ移り変わろうとしていたが、9月の東海岸はそこはかとなく秋の気配を感じさせるものがあった。
 とりあえず、LAに戻ろう。南部は後で回ることにしよう。LAには、これといって親しい人はいないが戻ることにした。
 実はLAでしなければならないことがひとつあった。シャドー1100のナンバー・プレートと保険のことだ。新車で買ったシャドー1100にはナンバー・プレートがなかった。店の人に連絡先を知らせたら郵送すると言っていたが、ルーズなアメリカ人の言うことなので、あまり信用しなかった。第一、郵便がきちんと着くかどうかさえ心配だった。面倒でも、直接、店に行って手続きをした方が確実だ。

青空とヘルメット

マンハッタン島最南端にて。左の奥に見えるのが自由の女神。
(ニューヨーク州 9月)

 1週間程、NY(正確にはニュー・ジャージー州の友人宅)で休養し、首都ワシントン・D・Cを観光後、LAを目指すことにした。
 バンクーバーからNYまではカナダ・アメリカ国境近くを走ってきたので、今度はほぼアメリカ大陸の中央を通ることにした。
 この辺はこれといった大都市も観光地もない。オリンピックを開催したセントルイスやモルモン教の聖地ソルト・レイク・シティ、砂漠の不夜城、ラスベガスが主な見所だ。コロラドからロッキー山脈を越える辺りの大自然は見事であった。
 NYを離れてすぐ、私はスランプに陥った。何のために旅を続けているのか、なぜモーターサイクルで走り続けるのかを自問自答した。半径数千キロに知人が一人もいないという事実が身につまされた。どうしようもない虚無感が襲ってきた。
 しかし、いつしか気分が晴れた。疑問に対する明確な答えがわかったわけではなかった。ただ、言えることは、人生そのものが旅の一つの形だということだろう。


ニューヨーク観光


1987年9月1日(火)小雨のち晴れ

 マンハッタン島をあっさり走り抜け、ニュージャージー州に入った。渡米前の唯一の知人ノリコさんの家に泊めてもらう約束をしていたのだ。
 渡米前の知人とは言っても、数年前に2度程会ったことがあるだけで、夫のケンジさんとは一面識もなかった。それでも、唯一の知人ということで訪ねて行ったのだ。遠く離れた外国では、ちょっとした知り会いでも何かと心強い。
 彼女たちが住むリバーベル市には難なくたどり着けたが、家が見つからない。森に囲まれた高級住宅街で道路が緩やかにカーブを描き、碁板の目のようには造られていない。正にガーデン・ステイツ(ニュージャージー州のニックネーム)といったところだ。
 結局、電話をかけてグロッサリーまで迎えにきてもらったのだが、待っている間にちょっとしたトラブルに遭った。私のシャドー1100を見た白人青年が、ナンバー・プレートがないと言うのだ。カナダでは1日に何回も親切なカナダ人にプレートを落としていますよと言われたので、またかと思い、
「アイ・ノー サンキュー」
と受け流していると、その男は警察手帳のようなものを示しながら、しつこく聞き正してきた。アメリカは合衆国なので州ごとの法律が違うので説明するのがひと苦労だ。
 ケンジさん、ノリコさんは歓迎し、高級中華料理店に招待してくれた。在米日本人の家にはいろいろな客がやって来るものだが、まさしく、友、遠方より来たるだ。一番私を歓迎してくれたのは愛犬の小梅ちゃんだった。レザージャケットのにおいにおびえたのか、太目の体を震わしてワンワンと元気良く吠えた。
 私の身なりが余程きたなく見えたのか、すぐに風呂を勧めてくれた。2人のご好意に甘えて、1週間程居候しながらNYCや近郊を観光しながらゆっくり過ごすことになった。


1987年9月2日(水)快晴

青空とヘルメット

ロフトでセッション演奏を続けた。右下でベースギターを弾いているのが森川さん。シャドー1100は念のため屋内に入れておいた。外は、ジャンキーがうろうろしている。
(ニューヨーク州 9月)

 ちょうど正午、ジョージ・ワシントン・ブリッジを渡って、NYC(ニューヨーク・シティ)に向かった。本格的なNYC観光の始まりだ。
 マンハッタン島を素通りし、ロードアイランドのプロラボ(主に商業写真家が利用する現像所)へ急いだ。このプロラボはチャールズが働いている所だ。チャールズは5日前に片田舎のYH(ユース・ホステル)で知り合ったプロのフォトグラファーだ。彼は撮影出張のため会えなかったが、たまったフィルムを現像に出した。
 ニューヨークもロードアイランドともなると高層ビルもなく、田舎の雰囲気が漂う。最も、国土の広大なアメリカのこと、高層ビルはマンハッタン島、シカゴ中心部をはじめごく一部に限られている。いや、極東の偉大な島国でさえ高層ビルは一握りしか存在していない。ただ、街角の有色人種や壊れっぱなしの公衆電話に緊張感を覚えた。
 AAA(全米自動車連盟)で地図を手に入れたりして時間をつぶした。AAAの一覧表を見ると最寄のオフィスがよくわかる。何度も言うようだが、サービスの悪い北米でAAAだけは例外だ。
 5時にフィルムを受け取りに行くと、チャールズに再会することができた。彼は私との再会を非常に喜び、地下のスタジオやラボ(現像室)を丁寧に案内してくれた。出入り口には暗証番号付きのカギが掛かっており、部外者の立ち入りは厳禁だが、異邦人の来客には特別らしい。何かにつけて好い加減なアメリカでは、フィルムの現像には神経質になってしまう。信頼できるラボを見つけるのは容易ではない。チャールズに出会ったことは本当にラッキーなことだった。
 別れを惜しみつつ、マンハッタン島に戻った。知人の知人のミュージシャンに会うためだ。異国では、知人の知人といえども大切な存在だ。
 待ち合わせの場所は、5番アベニューと3番ストリートの交差点にした。ダウンタウンのド真中で、ものすごく人通りが多い。こんな場所はかえって安全らしい。ブロンクス地区を夜にシャドー1100で走り抜けたことがあったが、子供がやたらと表にたむろし不気味だった。危険な目に合わないためには、危険な地域に近づかないことが一番だ。ガイドブックや現地の人に聞くとたいていのことは分かる。もっとも、大都市においては絶対安全だといえる場所など存在しない。用心するに越したことはない。辺りに気を配りながら森川さんを待った。
 彼は私のイメージとは裏腹に優しい物腰の青年だった。長めの髪を後まで束ね、ジャケット・ジーパン・スニーカーのスタイルは20歳後半とは思えなかった。NYC(ニューヨーク・シティ)に2年以上も住んでおり、バンドマンを中心に冬は大工のアルバイトをして生活している。ダウンタウンのアパート(小さめのワンルーム・マンション)の家賃が600ドルと聞いて驚いた。やはり、NYCは地価が高いようだ。地方なら一軒屋が借りられるだろう。
 NYCにはもう慣れたので別に怖くないと言っていたが、つい1週間程前に酒場でトラブルに巻き込まれ、プエルトリカンにナイフで刺され通院中だった。黒人に助けられ、大事には至らなかったらしい。
 日本だと黒人が一番危ないと思われているが、NYCでは文句なしにプエルトリカンが危ないと言われていた。LAでは国境を越えてきたメキシカンが危ないとされていた。いずれにしても、ヒスパニック系と言われる中南米人が最も差別されているようだった。
 ヨーロッパで差別された人々が自由な国を夢見て移り住んだアメリカは、黒人問題のみならず、中南米人問題でも大きく揺れている。
 変な話だ、NYCを観光した後は、黒人に対する恐怖感がグッと薄らいだ。黒人よりも危ない連中がいっぱいいる国であることがわかったのだから。
 森川さんは、これからバンドのセッションで遊ぶので一緒に来ないかと誘ってくれた。学生時代から少し楽器をやった経験のある私は、興味津々でついて行った。歩いて程ないロフトにはドラムやアンプが置いてあった。ものすごく散らかっていて、大学の練習室のようだった。シャドー1100は安全のため、ロフトに引っ張り込んだ。表には、”アル中”や”ヤク中”の有色人種がゴロゴロいるのだ。
 次々に4人の日本人がビールやマリファナを持って集まって来た。適当にやりながら、音を出し始めた。レゲエやローリング・ストーンズの古いナンバーを好き勝手につないでいった。
 4人ともパッと見は20代中ごろだが、実際は30歳前後だ。私は昨日、NYCにやって来た新参者だが、滞在10年を超える者もいた。自由にヒッピーのように暮らしていると年をとらないものだ。何の責任も義務もない異邦人は若さが失われないのだろう。私は写真を撮っていたが、ビールを飲んでいい気持ちになっていることも手伝って、空いているギターを弾き始めた。演奏はメチャクチャだが、ノリだけで楽しんだ。
 あまり遅くなるとケンジさんたちが心配するので、11時ごろにはジョージ・ワシントン・ブリッジを渡って居候先へ戻った。


1987年9月3日(木)快晴

 夜中に目が覚め、眠れなくなった。ケンジさんの愛読書のゴルゴ13(さいとうたかを作)を読み始めた。日本でも時々読んでいたので、のめり込んでいった。
 日本にいる時は、暗殺の舞台が遠く離れた外国であり、遠い話という気がしてきた。どんなに綿密に、リアルに街角の風景が描かれていても、決して実感がわかなかった。
 LA、サンフランシスコ、シカゴをはじめ、多くの都市を実際に見た直後だけに臨場感が全然違う。NYCにいたってはつい数時間前までダウンタウンでギターを弾いていたのだ。デューク東郷(ゴルゴ13)という人物が架空のものとは思えなくなっていった。

MOVE(ムーブ)


1987年9月4日(金)晴れ

 朝からペンジルバニア州フィアデルフィアへ出掛けた。
 かつて首都でもあったフィアデルフィアは、全米5位の大都市だ。歴史もあり多くの観光地があるがそれらにはまったく興味がなかった。私が見たいのは「ムーブ」だけだ。
 「ムーブ」とは、自然回帰を叫ぶ狂信的黒人グループで周辺住民との間でトラブルが絶えなかった。度重なる退去命令を無視し続け、ついに1985年警察当局との大規模な銃撃戦へと発展したのだった。当局のヘリコプターから放った手榴弾で、あたりは火の海になったという。
 観光案内所で「ムーブ」を見たいと言うと、係員は映画館の案内を取り出そうとした。そうじゃないと言うと、今度は引越屋の案内を捜し始めた。
 下手な英語で「ムーブ」を説明すると係員は顔色を変えて奥へ走り、数人で何やら相談し始めた。カウンターに戻って来た係員は手短かに「ムーブ」への道順を教えてくれたが、それ以外何も言わなかった。
 隣のアメリカ人の旅行者は私をつかまえて、あそこは観光客の行く所ではないと真顔で止めようとした。「ムーブ」は外国人には知られたくないフィアデルフィアの、いやアメリカの恥部なのだ。ほうぼうで「ムーブ」をどう思うか聞いてみたが、白人も黒人もあいつらは気違いだとはき捨てた。
 行くなと言われて行かないわけにはゆかない。わざわざ遠く日本から見に来たのだ。教えられた住所へ行くとどこにも銃撃戦の跡がない。小ざっぱりしたレンガ造りの家が並んでいるだけだ。地元の人に聞くと確かに「ムーブ」がいたと言う。そして、銃撃戦の末、辺り一面は完璧に焼け落ちたらしい。しかし、市長(ちなみに数少ない黒人市長)の手で住宅が新築されていたのだ。
 「ムーブ」のメンバーは今どこにいるのか聞くと、全員ジェイル(刑務所)へ行ったと力なく答えた。


古本屋


1987年9月5日(土)晴れ

青空とヘルメット

貧乏旅行のためお金の掛かるミュージカル観劇とかは出来なかったのが残念。
(ニューヨーク州 9月)

 NYCに古本を探しに出掛けた。映画「イージー・ライダー」(テリー・サザーン作)の原作本だ。日本語版は何度も読み返していたのでどうしても英語版がほしかった。古本屋を見つけるたびに入って探していたが見つからなかった。NYCには世界最大級の古本屋があるので大いに期待した。
 古本屋は余程、万引きが多いのかかばんは入り口で預け、警備員の目の前の狭い通路をひとりずつ通る仕組みになっており、不愉快だった。エアコンもなく、カビくさい店内は一層不快に感じた。
 かなり探したが見つからないので一端、シャドー1100に戻りパーキング・メーターにコインを追加して、もう一度探し始めた。汗ダクになって探したがついに見つからなかった。20年も前だけに無理なのかもしれない。
 あきらめてシャドー1100に戻ると、その通り車に駐車違反チケットが張られていた。NYCは駐車違反の取り締まりが厳しいことでも有名だ。シャドー1100はコインを追加していたため、40ドルの罰金を免れた。オタワでの失敗(駐車タイム・オーバー)の教訓が生かされたのだ。古本は見つからなかったが、うれしい気持ちになった。
 チャイナタウンやリトルイタリーで食事を楽しみ、セントラルパークその他を見物して帰った。

1987年9月6日(日)雨

 あいにく、朝からの雨。こんな日はゆっくり休むに限る。洗濯物を整理しながら、2度目の大陸横断の計画を考えるのも悪くない。
 昼に食べた特製てんぷらうどんは絶品だった。海外で暮らす日本人家庭は、日本料理を食べることが多い。日本に住む日本人より和食が多いのかもしれない。日本では洋食党だった人でも海外で急に和食党になるのも珍しくない。そうなる気持ちは十二分に理解できた。


ボルチモア・ベイエリア


1987年9月7日(月)小雨のち曇り

 NYにきてはや7日目。そろそろ出発の時期だ。断続的に小雨のパラつくはっきりしない天気だが、荷物を山積みして気を引き締める。また、長い旅が始まるのだ。
 ニュージャージー・パークウエー、ペンジルバニア・パークウエーを南下した。この道は東名高速道路のように入り口でチケットをもらい、出口で料金を支払う仕組みになっている。アメリカの道路はすべてタダというのは大きな誤りだ。ただし、3ドル程度と安い。
 途中、アーミッシュと呼ばれる人たちが住んでいる村がある。宗教的理由から昔ながらの質素な生活を送っている。着る服や食べ物にも厳しい制約を設け、車は使わずに馬車で移動する。彼らの生活を邪魔しないために、むやみに写真を撮らないこととガイドブックにあったが、住民は気軽に手を振ってくれた。一人用の馬車で走る姿は滑稽(こっけい)で、ただの観光地のように思えた。
 とても蒸し暑く不快な日だった。まるで北陸の夏のようだ。アメリカ西海岸は乾燥していて過ごしやすいが、東海岸は蒸し暑くて嫌だ。
 日が落ちてきたのでボルチモアのYHにチェック・インした。古めかしい石造りの立派な建物で、天井が高いのが気に入った。シャワーを浴び、食堂でおにぎりを食べ始めた。すると回りの欧米人が、それは何かと珍しそうにのぞき込む。ジャパニーズ・サンドか、中身は魚か、黒いのは何だと口々に聞いてくる。私は胸を張って梅干し入りおにぎりを平らげた。
 8時過ぎ、ベイエリアのピアノ・バーでビールを楽しんだ。ボルチモア港は、レジャー用ヨットが並び、とても美しく楽しい雰囲気に囲まれていた。遊園地・モール街・大道芸人も出て盛り上がっている。黒人が8割方を占めていたが、とりわけ怖いとは感じない。ピアニストは次々に曲を演奏していった。ピアノマン(ビリー・ジョエル作)もそのうちの一曲だった。ピアノマンのためにあるこの曲は最高だ。
 こんなロマンチックな夜を一人で過ごすのは残念で仕方がない。ひとり旅はわびしいときもある。


ワシントンD.C.


1987年9月8日(火)雨

 ワシントンD.C.は、アメリカのいや世界の政治の中心であり、3度目の首都だ。全米50州のどこにも所属していない特別区でもある。ボルチモアからはほんの60kmしか離れていない。
 朝から降っていた雨は次第に強さを増していった。レイン・ウエアを着込んでいるため一層蒸し暑い。カナディアン・ロッキーやアラスカのように寒いよりましかもしれないが苦痛だ。幸いインターステイツ95号線は車が少なかったが、前も後ろも見えないほどに豪雨の中を走った。全米ツアー中、最悪の雨だった。
 昼前にはズブ濡れになりながらワシントンD.C.に着いた。とにかく、宿泊場所を確保しようとYHへ行くと工事中。ガイドブックで紹介されているゲストハウスへ行くと満員だと断られた。雨の中の宿探しは本当に骨が折れる。そこで紹介されたステイハウスへ行くと、ようやく部屋を確保することができた。
 YH協会に加盟していない施設でも同様のシステムで旅行者を受け入れている所は結構ある。すなわち、2段ベッドの相部屋で共同のシャワーやキッチンが使える安い施設ということだ。
 このステイハウスは訳の分からない施設で、精神科の診療所や教会の集会所も併設されていた。黒人の女性マネージャーに2泊分24ドルとカギのデポジット(保証金=出るときに返してくれる)5ドルを支払い、カギを受け取り部屋に入った。
 自炊後、昼寝をして起きると、皮肉な事に雨はすっかり上がっていた。歩いて食料やビールを買出しに出掛けた。街角にたたずむ人は、ほとんど黒人で、ちょっと不気味な感じだった。ワシントンD.C.が全米で最も黒人の割合が高い都市であることが実感できる。南部も黒人の割合が高いが、やはりワシントンD.C.にはかなわない。


1987年9月9日(水)快晴

 昨日の嵐がうそのような晴天。巣Zントャ、ホワイト・ハウス周辺を観光した。有名な建物が立ち並んでいたが何の感動しなかった。所詮テレビサイズに過ぎないからだ。
 市内観光もそこそこに、全米に2番目に小さいデラウエア州に向かった。(一番小さいのはニューヨークの東のロード・アイランド州)とても暑い。渡米してから一番の暑さだ。メッシュのランニング1枚で走っても暑いくらいだ。
 1時にデラウエア州に到着したが重大なミスに気付いた。後部シートをフリーウェーで落としてしまったのだ。いつもは山積みの荷物で大丈夫だが、チョイ乗りの時は荷物を降ろしている。2本あるボルトのうち1本なくなっていることは気付いていたが、もう1本あるから大丈夫と高をくくっていたのだ。
 帰りにシートを探したが見つからない。もう一度、戻って探したがやはり見つからなかった。シートはあきらめ、ホンダのディーラーを探した。
 5時過ぎ、やっとの思いで街はずれの店を見つけ出した。その後のことは日記にこう書いてある。


 「当然、シートの残庫はなし。
 ニュージャージーで無理をしてでもホンダ・ディーラーへ行って、ボルトを買うべきだったのだ。1ドルのボルトのため、シート代100ドルを失うことになる。
 旅では何が起こるかわからないし、起こったことはすべて自分の責任において自分の判断で処理しなければならない。
 今もモーターサイクル好きの女性パーツ係がヘルメットを置きっぱなしにしてはいけないと持って来てくれた。
 シートを注文すると1週間、急いでも4日かかるといわれた。私が店の新車のパーツを取ろうと提案した時、オーナーに聞いてみると係が言った時点でなんとかなると思ったがやはりそうなった。
 私は運が良い。確かに80ドルは3日の命だが、お金ですべてすんだのだから良しとしなければならない。
 いろいろな事件が起こり、なんとかクリアーする。その事が次につながっているのだろうか。自分を変えるのが一番難しいようだと思う。たかが1年の旅行では?」

 


大陸ひとりぼっち


1987年9月10日(木)曇りのち雨

 ゆっくりと起き出し、2日ぶりに荷物をシャドー1100に積み込んだ。東海岸観光に見切りをつけて、いよいよLA目指して一直線だ。
 ワシントン郊外のペンタゴンへ立ち寄ったが、ツアーに参加せず後にした。アメリカには珍しく人々がキビキビと歩いているのと、シャトルバスが運行する広大な駐車場が印象に残った。
 I−65(インターステイツ65号線)、I−81を走り、アパラチア山脈に入って行った。メガロポリスの東海岸とは一変し、大いなる田舎に風景が変わる。高度が上がるにつれて、曇りが雲に変わった。9日が最も暑い一日だったが、10日は湿度が高く、一番不快な一日だった。さらに、日焼けした腕か硬いジャケットにこすれ気持ちが悪い。この辺(パージニア州)の夏は湿度が高く、全米でも最悪らしい。
 I−64に乗り換え、アパラチア山脈を一気に越えようとしたが、雨が降り出したので町に引き返した。無理するのは得策ではない。誰に頼まれたのでも、勧められたのでもないひとり旅なのだ。
 4時間前だったが、インド人の経営するモーテルにチェック・インした。ものすごい山奥ではないが、何もない田舎町で、州道の両側にすべての商店と民家が並んでいた。付属のレストランで食べたスパゲティはとてもまずく、胃にもたれた。生ぬるい水が一層まずさを引き立てた。タックス・チップ込みで7ドル50セントは高過ぎる。
 精神状態が不安定で無意識にヒゲを引き抜いてしまう。そのため大幅に短く刈り込んでそろえた。財産チェックをするとトラベラーズ・チェック920ドル、現金80ドルと少々心細くなってきた。旅行だから減る一方なのだ。
 ニュージャージーを出発してからすでに4日が過ぎたが、大西洋からたったの300kmしか離れていない。LAまで7,000km以上ある。雨に見舞われたバーモント州でも落ち込んだが、この時は知り合いの無さが拍車を掛けた。決して、ホームシックではないのだが、アメリカ大陸の一人ぼっちをひしひしと感じた。半径1,000kmで知り合いは一人もいないのだ。


キャンプ生活


1987年9月11日(金)曇り時々雨

 アパラチア山脈を越え、フリーウェーをひた走った。途中で建設中になっていたので仕方なく、一般国道に乗り継いで西へ向かった。悪天候、悪路、対面通行の国道60号線を抜けてウエスト・バージニア州、アハイオ州からケンタッキー州に入った。アメリカを旅する多くの人は、フリーウェーより田舎の道のほうが好きだと言うが、わたしはそうは思わない。田舎道は路面がきちんと整備されていないものも多く、カーブもきつい。対向車もあり、歩行者も出て来るので危なくてしょうがない。それにパトカーも多い。フリーウェーといっても十分に景色を楽しめるし、安全で快適だ。アメリカ車社会の物質文明が丸かじりできるのがフリーウェーだ。
 7時を回っていたので、手近にあったケープ・ラン・レイクのキャンプ場にテントを張った。テントを張るのは実にサウス・ダコダ州以来、1ヶ月ぶりだ。YHやモーテル、居候と屋根付きの家で寝ていたので、やや野性味が損なわれていた時期だった。ワイルドさを失わないために無理してキャンプを張ったというところか。
 テントを張り終えたころには、すっかり暗くなっていた。600km以上走ったので、かなり疲れていた。夕食を作らなければならないが面倒だ。
 私は全く運が良い。隣の家族から夕食に招かれたのだ。ホットドックにコーラ、ビスケットにコーヒーというアメリカらしい内容でもてなされた。キャンプ場には親切な人が多い。それに、中級家庭の人達が多いので、多少ごちそうになったからといって迷惑ではない。キャンピング・カーでヨットを引っ張って週末を楽しんでいる人種だ。共稼ぎで働き、週末は都会を離れて、キャンプ生活を送るのがひとつのライフ・スタイルになっている。このキャンプ場は野生ジカが何頭も現れるのどかな所にあった。変な東洋人と話をするのは、格好の退屈しのぎになったこどだろう。

1987年9月12日(土)雷雨のち曇り

 未明、猛烈な雷で目が覚めた。テントの中で一瞬明るくなる。雨風はしのげるもののテントはしょせん、薄い布切れだ。大滴の雨がテントをたたき、耳をつんざく。無理してキャンプしたのが裏目に出たようだ。寝袋に頭まで入り耐えた。
 テントの中で片付けることはできても外へ出ることはできない。こんなとき、地図やガイドブックに目を通しても身が入らず、すぐに飽きてしまう。お世話になった知人夫婦にそれぞれ、お礼の手紙を書いた。勢い余って、小梅ちゃん(犬)にも一筆したためた。手紙を書いていると時がたつのが早く、気が紛れる。
 昼近くになって雨が限りなく小さくなってきた。テントにとどまっていても何のメリットもない。少しでもLAに近づこう。急いでテントをたたみ、シャドー1100を走らせた。
 インターステイツ64号線でケンタッキー州を抜け、インディアナ州でタイムゾーンを超えたころ、ようやく温暖前線をはいでたようで雲が切れ、少し蒸し暑くなってきた。イリノイ州でキャンプ場に入った時は、ものすごく暑かった。6時を過ぎていたが、30度以上あり、セミの鳴き声がやかましかった。
 またしても私は、老夫婦たちに夕食をごちそうになった。キャンプ場では、努めて明るく、社交的にふるまうのがコツだ。語学力なんて対して必要ないのだ。軽く手を振り、「ハーイ」と言えば良い。
 メインはまたしてもホットドックだった。3組の老夫婦がたき火を囲み、長い棒の先にフランクフルトをつけて、それぞれが楽しむのだ。ノドが乾いていた私はビールが飲みたかったが、高血圧が気になるのでだれも持っていなかった。80歳を頭に隠居生活者ばかりだがとても若々しく見える。日本の教育問題や彼らの生活スタイルについて話した。週末ごとに集まるらしいが、ここ5週間は雨が降らなかったらしい。

セントルイス


1987年9月13日(日)晴れ

青空とヘルメット

大陸横断は、いろいろなことを考える時間を与えてくれる。ひとりぼっちの旅は自分だけが頼りだ。
(ミズーリー州 9月)

 出発の準備をしていると、前夜とは別の老夫婦から朝食に招かれた。田舎では私のような東洋人ライダーは余程珍しいようだ。ベーコン・エッグ、トースト、ミルクをゆっくりといただいた。壁のカレンダーがまだ8月のままだったのがすごく印象的だったが、指摘せずに別れた。
 いざ、出発しようとしてトラブルが生じた。バッテリー液が蒸発し、エンジンがかからないのだ。シャドー1100はセルモーターだけでキックはない。あせったが、水道の水を補給するとバッテリーは復活した。
 10時過ぎ、ミシシッピー川を渡り、西部へのゲート・ウエー、セントルイスに着いた。アメリカ西部とは、ミシシッピー川の西側を指すのだ。東海岸を離れて1週間ぶりの都市で、銀色に輝く巨大なアーチがそびえ立っていた。ここ数日は、全米ツアー中で印象の薄い時期だった。何も観光せず、悪天候の中のキャンプ生活を耐え抜いたため、感動もひとしおだった。
 セントルイスには、世界最大級のビールメーカー、アンフューザー・ブッシュ社がある。社名より、ビールの王様バドワイザーと言った方が通りが良いだろう。ブッシュ・スタジアムには、カージナルスの赤いTシャツがあふれていた。
 電話で予約した後、郊外のブッシュ社へ向かった。ミルウォーキーのビール会社では工場を見学させてくれたが、ブッシュ社はなんと動物園だった。専用の連結バスで広大な園内を草食動物中心に見て回るようになっている。見学後は待望のビールの試飲になる。ビールはタダなのだが、コーラが95セントなのがユニーク。
 インターステイツ70号線を西へ西へと急いだ。真っすぐのフリーウェーは走りやすく、燃費はリッター当たり20kmを楽に超えていた。
 適当にキャンプ場に入った。ひどく疲れていたのですぐに寝ることにした。昼間は真夏以上に暑かっただけに、夜の冷え込みが身にこたえた。ミズーリー州あたりは、典型的な大陸型気候なのだ。


雷雨そしてガレージ


1987年9月14日(月)晴れ一時雷雨

 朝起きるとテントが夜露でぐっしょりとぬれていた。たき火を起こし朝食をとろうとしたが紙が足りず、ロードマップを燃やして火を起こした。
 I−70(インターステイツ70号線)を西へ走ると、カンサス・シティに着いた。カンサス・シティは、カンサス州とミズーリー州にそれぞれあって、なぜかカンサス州側の方が小さい。市内観光もそこそこにI−29を北上し、アイオワ州を目指した。
 天気が除々に悪くなり、ひと雨降りそうだった。天気が悪化しているのに加え、雲の多い方へ移動しているため、余計天気のくずれが激しい。蒸し暑く不快なのに加え、体調がイマイチで時速90kmしかスピードが出せない。
 正午過ぎ、セント・ジョセフでついに雷が鳴り出した。ドス黒い雲で空がおおいつくされ、あたりは真っ暗になった。しかし、こんな時に限って見つからないものだ。
 自動車修理工場が左手前方に見えた。シャドー1100ごとガレージに飛び込んだ。受付のおじさんに雨宿りを頼もうと近付いていくと、わかったわかったと手を上げながら次々にシャッターを閉めていた。あと数秒遅ければシャッターが閉まっていたところだ。シャドー1100ごと雨宿りできるとはラッキーのひと言に尽きる。上から下までぬれてしまったが、なんとか乾く程度だった。
 嵐はものすごく、稲妻と雷鳴が交互に襲う。雨は横風にあおられ、うねりながらあふれんばかりに降った。降りそそいだ雨は、川のように地面を流れた。
 この工場の人たちはモーターサイクル好きが多く、3台(スズキ、カワサキ、ヤマハ)が駐車してあった。親切な人ばかりで、シャドー1100を囲んで話をした後、各自持ち場に戻って行った。
 2時近くになって雨も上がり、ガレージから出ることができた。私もシャドー1100も調子が上々でI−29を快調に北上した。150km/hで走ったにもかかわらず燃費が21km/lを超えていた。


リンカーン・ネブラスカ

青空とヘルメット

不思議なYHで図書室に宿泊させて貰った。居心地は悪くない。シャワーは近くの大学の体育館のものを利用した。
(ネブラスカ州 9月)

 アイオワ州のカフェーで、ちょっとしたトラブルに気が付いた。皮ジャンパーのポケットに、入れておいたはずのスペアキーが見当たらないのだ。シャドー1100とカメラバッグのキーだが、この世にキーが1つしかないと思うと急に心細くなった。使っているキーがなくなれば旅を断念しなければならなくなる。人間とはなんと精神の占める割合が大きい動物なのだろうか。
 不安のまま、ネブラスカ州都・リンカーンのYHにチェック・インした。ネブラスカ大学の学生会館の一角で、教会・幼稚園・ゼミ室・集会所としても利用されていた。宿泊客は私一人で、案内された部屋は図書室。ソファがベットに変身するタイプだった。
 1泊3ドル50セントという低価格も魅力で連泊することに決めた。連日の移動で疲れがたまっていたし、やるべきことが山積みだった。シャワー・洗濯の後、翌日の予定を書き出すと次のようになった。


1. スペアキー2本2組
2. ヒューズ・セット(CB無線用)
3. 輪ゴム(荷物区別用カラー)
4. コンタクト・レンズ(左用)
5. タンパク質除去剤(コンタクト・レンズ用)
6. 郵便局(22セント切手)
7. AAAキャンプ・ブック
8. キャンプ用食料
9. きつい酒(睡眠用−私はアル中ではありませんが)

1987年9月15日(火)曇りのち雨

 朝から町に出て次々に用事を片付けた。リンカーンは、小ぢんまりした美しい町で、商店や映画館、公官庁などの都市機能は十分に整っていた。恐ろしいくらいのペースで用件が片付いていった。どこに何の店があるかは、イエロー・ページ(職業別電話帳)を見ればすぐわかる。町は都市計画に基づき、碁板の目のように造られているので住所も探しやすい。リンカーンのように一辺数kmの小さい町だとモーターサイクルを使うとものの数分で端から端まで行けて便利だ。
 割れたコンタクト・レンズもスムーズに手に入った。渡米前に新調したコンタクト・レンズは、こんなこともあろうかと、アメリカで入手しやすいボジュロム製にしておいたのだ。さらに、型番も書き留めておいたのが幸いした。
 アメリカでは、コンタクト・レンズ屋は眼鏡屋とは完全に分離し、医師の処方箋とサインがないと売ってくれない。型番を見せると医師のサインが無いと断られたが、旅行中である事情を話すとなんとかしてくれた。白衣姿の先生は全米ツアーの内容を聞いて目を丸くして驚いたが、頑張るよう励ましてくれた。最後におどろかされたのは値段の安さ。日本で1枚2万円以上するものが、たったの49ドル50セントで買うことができた。大きさもかさばらないので、お土産にしたいくらいだ。
 車や部屋のキーのようなものはものの数分でコピーできて値段も1、2ドルと日本よりグッと手軽。しかし、カメラバッグのキーはちょっと特殊で鍵の専門店でハンドメイドで作ってもらった。30分待たされたけれどスペアキーが出来て、すっと心が晴れた。
 あらかた用意が片付き、映画でも見ようと思ったが、上映時間がなんと6時から。昼間は上映していないのだ。この辺では映画は、仕事が終わった後の遅い時間に見るものらしい。結局、YHに戻り手紙を書いたり、読書をしてのんびり過ごした。
 ネブラスカ州はアメリカ本土のほぼ中央に位置し、太平洋や大西洋から2,000km以上離れている。本当に大陸的な大平原だ。日本だと海の無い都道府県は数えるほどしかないが、全米50州で海に面していない州が半数以上ある。広い国土に少ない人口(とはいっても2億5千万人)の国は、言葉でいわれても理解できない。実際にフリーウェーを走って初めて理解できるものだろう。また、その時同時に島国根性という言葉も理解できるだろう。



 
 





EZア・メ・カ
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撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE