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第2章 全米ツアー

第7期 ひとりぼっちの誕生日

ロッキー山脈

1987年9月16日(水)どんぐもり

 小雨の中、タイムゾーンを越えてコロラド州へ向かった。右前方からの向かい風が強く、コンボイを追い抜くときは必死だった。燃費が15km/hと悪くなった。
 中華料理屋で久しぶりのホット&サワースープを堪能。10分でピーマンのみ残してすべて平らげてしまった。メニューはスィート&サワー チキン、細身の春巻き、たまごチャーハン+スープで3ドル25セント。
 5時前にはデンバーに入ったがYHが閉まっていたため更に2時間ほど走りキャンプ場にテントを張る。もっと先に進みたかったが、ものすごい横風とロッキー山脈の万年雪を見たとたん、びびってしまった。

青空とヘルメット

道路には雪がないもののロッキー山脈の新雪には驚かされる。巨大なトラックがビールを運んでいた。
(コロラド州 9月)

1987年9月17日(木)雨のち晴れ

  25回目の誕生日

 夜中に降り出した雨と寒さのため何度も目が覚めた。7時にテントの入り口をオープンした時には雨がやんでいたが、キャンプ場の森は深い霧に囲まれていた。観光もそこそこに一気にコロラド州からユタ州へロッキー山脈をクリアした方が良さそうだ。とにかく寒いのは間違いない。
 出発しようとするとまたもトラブル。バッテリーが上がり、セルモーターが回らないのだ。管理人にトラックとジャンバー・ケーブルを借りてエンジンをかけた。怖くてエンジンを切ることができず30分以上もアイドリングを続けた。
 万年雪を見ながらI−70(インターステイツ70号線)を東へ走った。いくつ目かのトンネルを抜けたところで風景が変わった。
 新雪が積もっていたのだ。道路上の雪はすでに溶けていたが、あたりの森林は新雪に覆われ、美しく輝いている。もう正午だというのに気温はたったの5度。寒いのだが景色が抜群に良い。何度かロッキー山脈を越えたがI−70は最も走りやすく、かつ美しい。110km/h以上の高速コーナーの連続だ。
 それにこの日は私にとって特別な日だ。そう、誕生日なのだ。日記にはこう記されている。

 「ついに25歳の大台に乗ってしまった。五捨六入でなんとか20歳。25歳までには世界に飛び出したいと思った22歳のころから3年たった。
 今までの人生で何もしていない。これからの50年が大変なのだ」

 途中で温泉に入ったが、気温も水温も低すぎるのですぐに上がった。泳いだので体がだるかったが、シャドー1100を走らせた。渡米前は、モーターサイクルでロッキー山脈を越えられるかと本気で心配したが、巨大なロッキーはとてもなだらかでコーナーらしいコーナーさえない。箱根八里の方がよっぽど走りにくい。

 コロラド・ロッキーも峠を越し、グランド・ジャンクションでYHに入った。北米にはジャンクションという地名が多く、JCT.と略して書く。田舎に多く、合流点の意味通り、道路がぶつかった地点だ。これといった産業はなく、観光地というよりも観光拠点。すなわち宿場町のノリだ。
 グランド・ジャンクションのYHは、もともと歴史のあるホテルの一部を利用したもので、個室に10ドルで泊まることができた。マネジャーのおばあさんは半世紀以上もホテルとともに生きた人で、とてもフレンドリーでモモをくれた。
 窓際のライティング・デスクでロッキーの山脈を見るというのはなんとリッチな気分だろうか。だれも知らない異国で一人ぼっちの誕生日。寂しさを感じないわけではない。25回目の記念すべき日の心境を書きつづった。
 スウェーデンから来た3人組と合流して町へ出た。近くのカフェ・レストランは生ピアノの切なく流れ、時代に取り残されたような店だった。ディナー・メニューを決めかねていると、女主人は安いランチ・メニューを持って来てくれた。貧乏旅行者の懐具合を察してくれたのだ。
 時々、半端な観光地へ行くと外国人から法外な料金を取ることがある。言葉巧みに正規の料金の2〜10倍もふっかけてくるのだ。日本人は格好のカモ。発展途上国が多いが、彼らは彼ら自身の祖国を売っていることに気が付かないのだろうか。
 ちょっと不良っぽい陽気な連中で明日はラスベガスでギャンブルするんだとはしゃいでいた。永世中立国スウェーデンには徴兵制度があり、3人も軍隊経験があった。デイブ・リー・ロスにそっくりのリーダー格は、軍隊なんてクソ食らえとはぎ捨てた。日本人に生まれて良かったと実感した。男女平等国スウェーデンでも女は徴兵義務はないらしい。

トラブル ユタ州

1987年9月18日(金)快晴

 早起きし、ソルト・レイク・シティー目指して西へ急いだ。コロラド州からユタ州に入ると風景が変わる。緑深いロッキーが、褐色の低木しか生えていない砂漠に変わる。車も少なく、殺伐とした大地が不気味に続く。ユタ州はアメリカの中で最も田舎の部類に入る。次のガソリン・スタンドまで180kmの看板さえある。
 アーチーズ国立公園を観光するため一般道に下りてすぐトラブルが始まった.見渡す限りの一本道を120〜200km/hで走っていたとき、すれちがったし白い車が一瞬ピカッと光った。新型フォード・ムスタング5000ccは、素速くUターンすると猛スピードで追いかけて来た。
 旅行者だから勘弁してくれと頼んだが無駄で違反チケットを切って裁判所へ行くことを命じた。覆面パトカーがすれちがいざまにレーダーを使うなんて信じられない。ユタ州には神も仏もいないのか。一般道を走るときは十分に注意しなければならない。
 裁判所はカフェー・レストランの一角にあった。裏手の一室が裁判所で裁判官と先程の警官が待っていた。容疑事実について2、3質問され、50ドルの罰金刑を言い渡された。しぶしぶ罰金を支払い、裁判所を出た。
 スタンドで給油しているとポンプ不良のため自動停止せず、ガソリンがどんどんあふれ出た。引火したらすべてを失ってしまう。こわごわと安全な所までシャドー1100を動かした。さらに、ストロボが故障したのもこの日だ。全くトラブル続きだ。
 この日の日記に面白いことが書いてある。


 「四国・九州旅行(14泊15日)のとき、別府でつめきりを買い旅の長さを実感したが、全米ツアーではブーツの底が擦り減って滑ることによって旅の長さを実感している。
 アメリカの駐車場はオイルや水がこぼれていたり、砂が浮いているので滑りやすい。ブーツはもうすってんてんだ。
 夕刻にはソルト・レイク・シティーに入り、市内のツーリスト・ハウスに連泊する手続きを取った。

 


1987年9月19日(土)うす曇りのち快晴

 巨大な教会(モルモン教)を中心に街が造られていた。日本の地方都市で白いワイシャツ姿で自転車に乗っている白人のほとんどはモルモン教の宣教師ではなかろうか。ガイドブックにはゴミ1つ落ちていない清潔な町と書かれていたが、やっぱりゴミは落ちていた。それより驚いたのは、乞食(こじき)が私にしつこく金を求めてきたことだ。大都市に乞食はつきものだが、ソルト・レイク・シティにもいるとは。
 ひと回りしてシャドー1100に戻るとチケットが張られていた。駐車禁止のはずはないのにとチケットを見ると、ノープレートの項目がチェックされていた。またも、ノープレートによるトラブル。
 慌てて警察に苦情を言いに行くと、苦情係はあっさりと月曜日に裁判所へ行けと言った。完全週休二日制か何か知らないが、土・日は休みだと言うのだ。ふざけるなと言いたい。こっちは旅行者でそう何日もいるわけではない。
 頭に来たまま駐車違反を取り締まっているパトカーをつかまえて猛烈な勢いで苦情を言ってやった。ポリスは無線で本部に連絡をとった。英語のしゃべれない男がチケットのことで苦情を言っていますが、どうしますかというような内容を話ししていた。結局、書類のコピーをテープで張れば良いということで罰金15ドルは払わなくて良くなった。
 私の捕まえたポリスはチケットを切ったポリスとは別人だったので、変な異邦人に文句を言われて災難だったかもしれない。
 このトラブルですっかり疲れ果て、ゲストハウスに戻り、4時間も昼寝をしてしまった。おかげで郊外のスピードコースを見損ねてしまった。全くユタはトラブルが多い。

ジムさんとの再会


1987年9月20日(日)晴れ

 ここ数日、風邪気味でノドが痛い。印象の悪いソルト・レイク・シティを離れ、インターステイツ15号線を南下した。

青空とヘルメット

ザイオン国立公園で記念撮影。
(ユタ州 9月)

 ロッキー山脈のすそ野を駆け下りたこともあって、猛烈に暑くなりだした。砂漠地帯のジリジリする暑さだ。6時を過ぎても30度以上ある。私は自分が病気になったのかと疑ったくらいだ。
 小さなザイオン国立公園も観光。赤い岩の地形は映画のロケにもしばしば利用されるという。
 この日はアラスカで知り合ったジムさんの家に泊めてもらうことになっていた。ユタ州南部の小さな町の一軒屋だ。3日前、コロラドから約束しておいた。さらに、電話はコレクト・コール(着信払い)でかけた。
 私はジムさんに渡したいものがあった。アラスカで一緒に撮った写真だ。それを手渡したいがために20,000kmも走ってきたことになる。

 ジムさんも再会を喜び、アラスカの土産話で盛り上がった。若い時は都会に住んでいたが、人間の多い所は嫌になり、田舎で農業をしながらのんびりと奥さんと暮らしている。ガソリンスタンドでジムさんの家を聞くと客の一人が家まで案内してくれるような小さな町だ。夏にモーターサイクル・ツアーに出るのが楽しみで、1988年はカナダの東端からアメリカ本土最南端のフロリダまでツーリングしたと写真を送ってきた。とても昭和ヒトケタ世代とは思えない。

 

 9月21日(月)晴れ。
 ジムさん宅でご飯の朝食。奥さんが気を使って用意してくれたのだ。さらに、破れたグローブやジャケットを直してもらったりすっかり世話になった。
 夕食までいただき時間を調整した。時間とは、ラスベガスは入る時間のことだ。タイム・ゾーンと日没の時刻を計算し、ネオンが最も美しい時に町に入るのだ。旅にはちょっとした演出も良い。不夜城ラスベガスまで200km。そして、LAまで800km。


不夜城ラスベガス


 ユタ州からアリゾナ州の一角をかすめ、ネバタ州に入ると間もなくラスベガス。岩の砂漠を切り開いたように、インターステイツ15号線は走っている。とても乾燥していて風景全体に妙な存在感というか迫力がある。

 砂漠をモーターサイクルで走っていると、不安だろうとよく聞かれるが、不安でないと言えば嘘になる。ただ、チッポケなモーターサイクルで不毛の大地を走っていると、なんとも言えない緊張感が快感にさえなってくる。
 ものすごく暑い所は6時を過ぎても40度近い高温だ。そんな過酷な自然の中でも低いブッシュが褐色の葉をつけ、生命の偉大さを誇示している。緩い下りこう配も手伝って、燃費が27.2km/lと最高値を記録した。

青空とヘルメット

不夜城ラスベガスへ入るには夜が良いと考えて時間調整して向かった。遠くに見える光の洪水がラスベガス。光のラインは、トラックのランプ。約60秒くらいのロングシャッター。
(ネバダ州 9月)

 タイムゾーンを越え、パシフィック・タイムの7時半。ラスベガスの光の海が見えてきた。
 フリーウェーのはるか遠くがゆれるように輝いているのだ。思わずシャドー1100を止めて、ロング・シャッターを切った。
 一流ホテルやモーテルが軒を並べるなか、YHにチェック・インし、2泊分16ドルを支払った。モーテルを改造したYHで、ラスベガスらしく24時間オープンで門限などない。シャワーのお湯の出が良いのも気に入った。
 同室のドイツ人と連れ立って、各ホテルのカジノを見て回った。スロットマシン、ルーレット、ポーカー、ブラック・ジャックなどのテーブルが並んでいる。初日でもあり5セントのスロットマシンで軽く遊びYHに帰った。
 YHには別の日本人がなんとHondaシャドー500で来ていた。思いおこせば東海岸から大陸のド真中を走って来たが、日本人に出会うことはほとんどなかった。ましてや日本語を本格的に話したことはなかった。思わず、私はワタベさんと深夜まで話し込んでしまった。世間は狭いもので、バンクーバーでお世話になったナオの知り合いであり、その後もバンクーバーで再会することになる。

1987年9月22日(火)快晴

 砂漠にポツンとありながらラスベガスは物価が安い。ガソリンもホテル代も食べ物も安い。ニューヨ−ク・ステーキが1ドル98セント(税・チップ別)で食べられる。焼き加減にも応じ、サラダ・ロールパン付きでこの値段とはビックリ・(タイムサービスで長い行列ができる)。
 それもこれも、カジノで莫大な収入があるからだ。各ホテルの1階は自由に出入りできるカジノで、種々のギャンブルを楽しむことができる。通常、ギャンブルは胴元が勝つことになっている。そのため、カジノの奥のレストランは信じられないくらい安い食事を出して客寄せをしている。味は良くないと言われるが、食べ物のまずいアメリカで、どうこう言う問題ではない。
 ラスベガスは治安も良い。大量の現金が動くカジノは厳重に管理されているため、警備員の目が行き届いている。私がナイフをもっていただけで、警備員室に連れ込まれたのだから恐れ入る。未成年(21歳未満)の出入りも厳しく制限されていることも付け加えておこう。ラスベガスには2つの大きなホテル街がある。1本道で続いているのだから歩いていけないことはないが、モーターサイクルがあると便利。ただし、ヘルメット着用義務があるのが難点。本格的にカジノを見て回った。それぞれの店が個性を出して営業しているが、現金をかけてギャンブルしているのは同じ。
 ブラック・ジャックの場合、テーブルごとにかけ金の額が示してある。最低で1ゲーム2ドル。高いのになると、100ドル以上のテーブルもある。ただし、高すぎるテーブルは客がいないことが多い。
 意を決して美人ディーラーと勝負しようと探したが、適当なのが見つからない。そのうち、酒が回り、カードが良く見えなくなってしまったので、ディーラーとの勝負は次の機会に譲ってYHに戻った。おかげで、2泊3日の滞在でマシンに負けた4ドルだけの損失ですんだ。

 ラスベガスには、ナイアガラの滝ほどではないが、がっかりしたことがある。
 第一は、町の中が暗いこと。遠くから見ると町全体が輝いていたけれど、一部の通り以外は案外暗い。
 第二は、町が大き過ぎること。砂漠の一本道の両側に10数軒の木造ホテルが並んでいる程度かと想像していたが、高速道路が縦横に走り、巨大なホテルが立ち並ぶ立派な都市だったのには驚いた。
 第三は、カジノを楽しむ客の服装。映画やテレビでは、タキシードやカクテルドレスに身を包んだ紳士、淑女の社交場であるが、実際はTシャツ・短パン・サンダル履きのアメリカ人がカメラ片手にうろうろするゲームセンターだった。
 第四は、ディーラーがあまりにもみじめに見えたこと。安っぽいユニホーム姿で退屈そうにカードを切る姿は単なるサラリーマンにしか見えない。うわさに聞いたカードさばきにしても、見てみると大したことはない。交代の際、ビニールのかばんを怖きに抱えフロアを歩いているのを見ると夢も希望も吹き飛んでしまう。それにブスが多い。
 第五は、カミノで配られるカクテルが安っぽ過ぎること。ゲーム中の飲み物はすべて無料だが、1ドル程度のチップを渡さなければならない。注文を取りに来るウェートレスのユニホームは派手な色とカットだが、中身のギャルと年歳の質が悪過ぎる。年のふけたギャルが運んでくる粗悪なカクテルなどうまくもなんともない。
 第六に、不夜城と言われながらも眠ること。午前中の早い時間帯はほとんどゲームテーブルに布がかぶせられ、マシンしかやっていない。不夜城にも時間の流れはあるのだと妙に感心した。 
 でも、勘違いしないでほしい。ラスベガスが好きか嫌いかと聞かれれば、迷わず好きと答えているのだから。

ついにカリフォルア


青空とヘルメット

日本人ライダーと一緒になることは珍しい。赤いタンクがヒロのシャドー500、黒いのが私のシャドー1100。ヒロは正面の風防と風よけのグリップガードをつけていた。
(ネバダ州 9月)

1987年9月23日(水)曇りのち雨

 珍しく一発でエンジンがかかった。アイドリング調整と気候のせいだろう。
 ガソリンの安いアメリカでもラスベガスは安い。1ガロン(3.8リッター)78.9セントしかない。アメリカは1ドル前後が相場だ。
 暑い暑いラスベガスでも、朝は走っているとちょうど良い。LAまで500km。1日の走行距離としてはちょうど良い。昼過ぎにはLAに着けるだろう。
 ブッシュが転々と生える砂漠地帯をインターステイツ10号線は真っすぐ伸びている。スピードがじわじわと上がってしまう。タイヤは丸坊主に近いがシャドー1100の調子は上々だ。
 走っていても浮き浮きしてくる。一度目の大陸横断(バンクーバーからNY)よりも数倍うれしかった。西海岸の方が私にはあっている。3ヶ月で30,000kmを走り、ついにカリフォルニアに帰れる。数えてみると、ハワイ州・アラスカ州を含め40州に足を踏み入れたことになる。
 正直言って疲れていた。連日、移動しながら各地を見て回る。有名な所でも見てしまうとなんだこんなものかとしか思えない。そんな「観光」に疲れていた。飽き飽きしていた。
 しばらく、移動することはない。手持ちの500ドルがなくなるまでゆっくりしよう。そして腹いっぱい日本食を食べるのだ。日記には、スシ・ラーメン・牛丼が食べたいと書かれている。ホームシックは全然ないが、長年つちかわれた食生活はいかんともしがたい。さらに私はパンが嫌いだ。
 不法労働者の多いカリフォルニア州に通じる道路には、国境同様の施設がある。ただし、余程あやしい者を除いて調べられることはない。手で行けと合図するだけだ。ついに、3ヶ月ぶりにカリフォリニアに帰ってこれたのだ。
 6月にやってきた初夏とは少しだけ違った9月の風が吹いていた。



 
 





EZア・メ・カ
2-7 ひとりぼっちの誕生日
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE