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第2章 全米ツアー

第5期 五大湖周辺

マジカル・ミステリー・ツアー


1987年8月19日(水)晴れ

 50州制覇のため、ノース・ダコタ州へ足を踏み入れた。いつも通りチャイニーズ・レストランでランチ・スペシャルを食べた。味も値段も主人のミスター・リーもナイスだった。 

 進路を東へとり、五大湖へ向かった。ミネソタ州は無数の湖や沼のある大平原地帯だ。インターステイツ(フリーウェー)ではなく、田舎道を走り抜け、スペリオリ湖畔のデュルースに着いた。デュルースは世界最大の内陸港で二つのYHがあった。一つはダウンタウンにあるYMCAで、もう一つは高台の住宅街にあるホーム・ホステルだった。珍しさも手伝ってホーム・ホステルに泊まることにした。文字通り、一般家庭をユース・ホステルに利用しているもので、キッチンなどは共用になっている。

青空とヘルメット

三番街にあるポールさんのパン屋。モーターサイクルをとめて、遠くから望遠レンズで撮影した為、彼はうろうろと私を捜した。
(ミネソタ州 8月)

 ここのマネジャー・ポールさんは少し変わり者だった。40歳近くなっても独身で本業はパン職人だ。宿泊者名簿も好い加減で玄関に鍵をかけていなかった。完全なベジタビリアン(菜食主義者)で、夕食には自家製トウモロコシとニンニク、セロリたっぷりの野菜サラダを出してくれた。私の持っていたウインナーには全く手を付けず、こんなおいしいトウモロコシはマーケットでは買えないと何本も何本も食べた。
 反核、軍縮、労働問題、自然について大いに盛り上がり、地下室から自家製黒ビールを持ち出し、さらに盛り上がった。やや炭酸の弱いドロッとした感じで味はまろやかで満足できた。
 ビートルズのレコードがあったので「マジカル・ミステリー・ツアー」を何度もかけた。なぜって、私はマジカル・ミステリー・ツアーの真っただ中だったからね。自由にモーターサイクルで大陸を走り、愉快な人間と語り合う。これこそ、マジカル・ミステリー・ツアーだ。
 私は客間の大きなベットに寝たが、黙々と筋肉トレーニングをこなすハゲ頭の白人とテレビに見入る中米人がいてトリッキーな夜だった。ポールさんは朝4時から仕事なので9時には自室に引っ込んで行った。
 なお、宿泊代(5ドル程度)はいらないと言われた。


ミルウォーキー


1987年8月20日(木)晴れ一時雨

 デュルースの三番街にあるポールさんのパン屋で、パンとコーヒーの朝食を取り、800km離れたミルウォーキーへ急いだ。横風が強く、はっきりと危険を感じた。大陸に吹く風は想像以上に激しい。
 10時間走ってミシガン湖畔ミルウォーキーに着いた。高層ビルとフリーウェーが都会を感じさせた。バンクーバー以来、10日ぶりの都会だった。都会に住んでいると脱出したい衝動にかられるが、いざ何も無いド田舎にでると3日で飽きてしまう。都会の持つ機能性には勝てない。いったん、都会的現代生活を覚えたものは、原始生活には戻れないものだ。
 五大湖周辺から東海岸にかけてはYHが多いので、ほとんどYHを泊まり歩いた。この日はキリスト教団体が管理するもので、マネジャーはマザーと呼ばれていた。間仕切られた個室はとても清潔で机もあり快適だった。
 宿泊客は防衛大学校の学生と二人きりだった。いったん、自衛隊に入ってしまうとなかなか海外旅行が難しいので、夏休みを利用してバスでアメリカを回っているという。入隊後は新婚旅行でも半年以上前から上官の許可を取り付けないと渡航は難しいらしい。私は軍人と役人と政治家は大嫌いだが、妙に彼とはウマが会った。
 腹ペコだったので二人乗りで食事に出かけた。ウィンスコンシン州はノーヘルが許されているのでヘルメット一つでも二人乗りが可能だ。ノーヘル有の州はちょっとした買い物や給油、友達やヒッチハイカーを乗せるとき便利だ。さらにフリーウェーの二人乗りは全米でOKということも付け加えておこう。本来、原付き以外のモーターサイクルは二人乗り用に企画、設計し、製造されているのだ。極東の島国ではモーターサイクルへのイジメがあるようだが、真の文化国家に目覚めてほしい。特に役人と政治家の先生方。
 YHでの飲酒、喫煙、麻薬は禁止されているのだが、二人でオールドー・パー(ウイスキー)をあおりながら深夜まで話し込んだ。


1987年8月21日(金)晴れ

青空とヘルメット

見学時間までクラシカルな待合室で休む。
(イリノイ州 8月)


 フレンチ・トーストを作って食べ、暑さを感じる晴天の下、ダウンタウン(中心街)へシャドー1100を走らせた。ミュンヘン、札幌、ミルウォーキーはビールの名産地だ。ビール工場を見ずして帰るわけにはいかない。私は輸入缶ビールを収集する趣味があり、ビールには人一倍関心が強い。
 まず、老舗パブスト社の11時からの見学ツアーに参加した。20人の見学者がゾロゾロと工場を見て回った。案内者は説明の途中、途中で「ウー」の驚嘆の声を強要した。日産何ガロンだとか、1時間に何本瓶詰めするとか言っては「ウー」の声をねだった。
 1時間の見学ツアーが終わると待ちに待ったビールの試飲。日本のビール工場だと、ドライバー、ライダーにはビールを飲ませてくれないものだが、完全な車社会・アメリカでは、全くお構い無しだった。
 近くのチャイニーズ・レストランでランチをとり、すぐに世界第2位のビール・メーカー・ミラー社を訪ねた。ミラー社はダウンタウンのはずれにあり、足が無い人には不便だ。ミラー社では、会社の歴史映画やオリジナル・ポスト・カード、オリジナル・グッズを作っており、サービスは良かった。近代化された工場で次々に自動生産されるビールは単なる工業製品としか思えない。
 見学後は当然ビールの試飲が待っている。正直言ってかなり酔ってしまった。売店で買った黒のネーム入りサングラスを掛けて表に出た。
 ノーヘル・酔払いのままI−94(インターステイツ94号線)をシカゴへと急いだ。ミルウォーキーのあるウィンスコンシン州も、シカゴのあるイリノイ州もノーヘルOKなので気分は最高だった。200kmの道のりを堂々と走り抜けた。思わず、ステッペン・ウルフの『ポーン・ツゥ・ビー・ワィルド』(映画『イージー・ライダー』のテーマ曲)が口をついて出てしまった。

スィートホーム シカゴ


 シカゴは、超高層ビル群を有する人口が全米第三位の大都市だった。当時、世界一を誇るシアーズ・タワーはニューヨークの摩天楼をしのぎ、シカゴっ子の自慢だった。
 2連泊したYH(ユース・ホステル)はダウンタウンから15kmも離れていたが、田舎道を走りぬいていた私には立派な繁華街に見えた。
 全米チェーンのGAP(ギャプ)というジーパン屋でペパーミント・ブルーのコットンパンツを買った。この時まで皮パンツ以外はパジャマ兼用のスエットパンツしかなく、街中を歩くときもこれだった。別に恥ずかしいとは感じなかった。周りがすべて異人種だし、知り合いは半径数千キロ以内に、一人もいないのだから。それでもシカゴという大都市に来たことでもあり、タウン用に一本買ったのだった。この日以降、ほぼ毎日はき続け、10ヶ月後のソウルではついにヒザが破けてしまった。ソウル初のパンク・ファッションとしてソウル市民の注目を集めてしまった。洗濯時の色落ちが激しいのには閉口したが、メイド・イン・ジャマイカ4ドルの安物にしては、十二分に役に立った。
 YHのロビーでひとり旅をしているサキコさんと知り合った。バスでひとり旅をしている女性は結構多い。彼女は数日前からシカゴに滞在していたのでいろいろ情報を得た。
 話が弾み、いっしょにライブハウスに行く事になった。一人でナイトスポットへ行くのは勇気がいるが、二人だと心強い。花金の夜でもあり、大変盛り上がっていたが、黒人ロックバンドの演奏はイマイチだった。黒人はリズム感が抜群と信じているがそうとも言い切れない。「ウェルカン・ツゥ・シカゴ」などご当地ソングを歌っているのには笑った。
 蒸し暑い夜でもあり、ビールがとてもうまかった。この日(8月22日)は朝からビールばかり飲んでいた。ポリスマンに気を付けて、夜のシカゴの街を二人乗りのシャドー1100で走り抜けた。


1987年8月22日(土)晴れ

 ダウンタウンのマクドナルドで朝食をとった。店内は60年代グッズであふれ、ビートルズの等身大人形まであった。マクドナルドは全米にあるが時々、凝った造りの店があって楽しませてくれる。
 チャイナタウンや博物館などを観光した。あいにく穀物取引所などは週末のためしまっていた。ダウンタウンから少し離れた住宅街は、完全な黒人街でモーターサイクルで走っていても不気味だ。これといってトラブルに巻き込まれたことはないが、言いようもない威圧感は体験した者でないと分からないだろう。どこの大都市も事情は同じで、白人は街の中心部から郊外に逃げ出し、スラム化が進んでいる。最近は、イスパニック系住人の進出で白人や黒人が逃げ出すようになって来ている。
 過激な黒人ライダーに出会った。赤のカワサキ・ニンジャ1000にノーヘル・ノーグローブで余裕たっぷりにまたがっていた。反対車線で待っていた彼は、信号が赤から青に変わるといきなりウイソー(前輪を上げたまま走ること)を見せたのだ。アクセル・スロットルを思い切り回し、ハンドルを引き上げた。エンジンのハイ・パワーのみに頼った、いかにもアメリカ的なウイリーだ。タイミングとかバランスとかを全く無視したやり方だった。彼はそのまま、バランスをくずし転倒してしまった。ニンジャの赤いカウルやオレンジ色のウインカーの破片が道路に飛び散った。
 夕暮れの中、サキコさんと散歩した。ワインを片手にミシガン湖畔を歩いた。ミシガン湖に限らず五大湖は大きな波が立ち、海のようだった。日もすっかり落ち真っ暗な湖は白波だけが見えた。湖畔のキスは赤ワインの味がした。
 この日はなぜか蒸し暑く、寝苦しい夜だった。

都市型フリーウェー


1987年8月23日(日)晴れ

 タイムゾーンを超えて、ミシガン州最大のデトロイトへ向かった。いつもながらタイムゾーンを西から東へ超えると1時間損をしたような気分になる。
 デトロイト市内のフリーウェーには驚いた。片側6車線の広々とした道がエキスプレスとローカルに完全に分離しているのだ。エキスプレス側は中央を一定のスピードで流れている。自分の降りたい出口が近づいたらローカル側へ移動し降りるシステムになっている。東海岸にはいくつか同様のシステムがあったが、さすが自動車王国デトロイトと感心した。
 フリーウェーは田舎型と都市型がある。田舎型は片側2車線で大地と同じ高さを走っており、壁がないのが普通だ。都市型は片側3車線以上で高架または、地面を掘り下げた所を走っている。壁にさえぎられ圧迫感がある。特に田舎型フリーウェーを数日間も走り抜いていきなり都市型フリーウェーに入ると恐怖を感じるものだ。都市型は交通量が多い割に流れが速く、的確な判断と行動が要求される。そして時には渋滞も起こる。
 日曜日ということもあり、人通りもなくゴーストタウンのようだった。市街マップを持っていなかったので、すっかり道に迷ってしまった。人口は100万人程度だが街の面積が広く、郊外のホームホステルにたどりつくのに2時間もかかってしまった。
 ホームホステルは典型的中級家庭で庭付き一戸建てだった。オーナーは鈴木健二そっくりの大学教授だった。日本人の客は初めてだった。昔はダウンタウンに住んでいたが、環境が悪化し引っ越したらしい。子供部屋を改造した2階の個室をあてがってくれた。土地の広いアメリカの民家はほとんどが2階建てだ。高層ビルは一部のビジネス街とホテルに限られている。
 リー・アイアコック(元フォード自動車社長でクライスラー社を再建したイタリア系アメリカ人。彼の自伝を読んで強い関心を持っていた。)は今どこにいるのかと聞くと、仕事のため、ニューヨークにいると答えた。デトロイトは生産拠点だがニューヨークの存在は大きいようだ。


ゴー・ヘル・デトロイト


1987年8月24日(月)晴れ

 朝7時にオーナーに起こされた。時差の関係で私の体内時計ではまだ6時になったばかりだ。疲れが抜け切ってなく起きるのがつらかった。バンクーバーを出てから早2週間。アメリカに渡ってから約2ヶ月。知らず知らずのうちに疲れは蓄積されていくようだ。
 バーガーキングで朝食をとっていると、二人の黒人が近づいてきた。朝っぱらから、ウイスキーをあおっている。いかれた連中だ。アル中で手が震えている。誰かれかまわず金をせびるのだ。はっきり断った。ゲット・アウェイ(消えろ)。このとき、腰のキャンプ・ナイフを見えるようにちらつかせることも忘れなかった。
 こんなつまらないトラブル一つで街の印象ががらりと悪くなるものだ。アメリカで嫌いな街はどこかと聞かれると、デトロイトと答えるようになった。
 デトロイトで実際に起こった事件だが、失業中の自動車工が日本を逆恨みし、日本人と間違えられた中国人が殺されたのだ。アメリカの自動車産業がダメになったのは、単に日本車やドイツ車に性能がはるかに劣っていただけで、アメリカ自身の問題に過ぎない。特に日本の自動車メーカーは、ハンドルの位置まで変えて輸出国に合わせているのに、今だにウインカー・ランプが赤のままのアメリカ車はなんだ。映画「タッカー」のラブ・シーンで悟られたことが現実になっただけだ。
 市内観光をする気にもなれず、国境にかかる橋を渡ってカナダ・オンタリオ州に再入国した。目指すは、世界的に有名なナイアガラの滝だ。デトロイトから約500km離れている。
 入国の際、ワーキング・ホリデー・ビザを提出した。これは観光ビザと違い、労働が許可されている。渡航前にカナダ領事館に問い合わせると良い。ナイアガラに着いたのは7時を回っていた。民宿のようなものが軒を連ねていたが安い所が見つからず、結局、YH(ユース・ホステル)に2泊することにした。


ナイアガラの悲劇


1987年8月25日(火)晴れ

青空とヘルメット

夜はライトアップされるナイアガラの滝。大きいことは大きいが、大都市からほど近い観光地という感じ。
(カナダ側から 8月)

 ナイアガラの滝は最悪だった。全米50州、カナダ5州、メキシコ5州で訪れた無数の観光地の中で最高に失望した。私の期待が大き過ぎたのかもしれない。いや、ナイアガラはかわいそうだ。ただの観光地になり下がっている。
 これには、二つの悲劇があると思えた。
 一つは滝の形があまりにも観光地向きにでき上がってしまったことだ。ご存知のように、エリー湖とオンタリオ湖の水面差による瀑布(ばくふ)は確かに大きい。滝の形は横に長く、日本人のイメージにある白糸の滝とは全く違う。しかし、滝壷から川が急に右に曲がっており、川沿いの道路のはるかかなたから滝を見ることができる。最初に見た時は、滝の一部かと思ったが、それが全部だった。いくら大きな滝だといっても、はるか遠くから見ると小さく思えてしまう。
 もう一つは、滝が大都市から遠くない所に位置していることだ。ナイアガラはカナダ・オンタリオ州とアメリカ・ニューヨーク州にまたがっている。トロント、ニューヨークをはじめデトロイト、モントリオール、ボストンからも手ごろな所にあるのだ。当然、能天気な団体サンがわんさか押しかけてくる。

青空とヘルメット

滝壺を観光する舟。通称「乙女の涙号」。
(ナイアガラの滝 8月)

 その結果、滝の持つ荘厳な自然美とは無関係に土産物屋(大橋巨泉の店もある)や遊園地が幅をきかせている。セピア色の写真をとる店や、ミュージーク・ビデオを作ってくれる店は一体なんなんだ。観光タワーが3本も建っている異常な所が他にあるだろうか。東京には東京タワー、横浜にはマリン・タワー、大阪には通天閣、神戸にはポートタワーと1本ずつが相場なのだ。鳥のかわりに観光ヘリコプターが何機も飛び回っているのは気持ちが悪い。
 世界最大のけたはずれの滝が南米のジャングルの中にあるらしいが、その方が滝としては幸せなのかもしれない。 神秘は手頃なことが条件になっているのが悲しい。


痛恨の駐車違反


1987年8月26日(水)晴れ一時雨

 ナイアガラの滝は最悪だったが、カナダにとっては唯一誇れる所だろう。あらゆる面でアメリカの弟分のカナダだが、ナイアガラだけはカナダ側の方が勝っている。
 オンタリオ湖の西側を回って、300万都市トロントに入った。チャイナタウンでヤムチャを楽しみ、トロント大学学生課でワーキング・ホリディ・プログラムの説明を受けた。係りの女性は、自転車で来た人は2人いたが、モーターサイクルで来た人は初めてだと驚きながら歓迎してくれた。時々、英語が全くしゃべれない日本人が来ると嘆いていたが、私以上に度胸のある人もいるものだ。
 首都オタワの途中のピーターバーグという田舎町のYHに入った。個室で8ドルはラッキーだった。田舎町だけに日本人は年に数人しか来ないらしい。


 8月27日(木)曇り。

青空とヘルメット

オタワの国会議事堂。見学が駐車違反という思わぬトラブルに発展した。
(カナダ・オンタリオ州 8月)

 オタワに着いたのはちょうど2時だった。メーター式の路上駐車上にシャドー1100を止め、国会議事堂ツアーに参加した。ツアーは英語組とフランス語組に分かれ、いかにもカナダらしかったがフランス語組はガラガラだった。
 30分程で終わると聞いていたが、実際は1時間以上かかった。慌てて駐車場に戻ると、しっかりチケット(駐車違反)が張られていた。やられた。
 カナダ・アメリカではモーターサイクルも立派な車両と認められ、車と対等に走ることが許されている。二輪車通行禁止などという差別はない。その分、違反に対してもシビアだ。街中の駐車違反はバンバン取り締まる。時には、モーターサイクルさえ、レッカー移動してしまう。特に首都や州都、大都市はポリスの取り締まりが厳しいようだ。
 ツアーに開始直前にもう一度コインを追加しておけば、ツアーはあまり面白くなかったのだから、途中で戻っていればと後悔してしまう。はじめっから別の有料駐車場に入れておけば。すべてが裏目裏目とつながって27ドルの罰金となった。


フランス語圏 ケベック州


 トラブルに遭うと、とにかくその場を離れたくなるのが人情だ。オタワを北上し、モントリオールに入った。
 モントリオールのあるケベック州のみは、英語よりフランス語がメーンで、道路標識もフランス語だ。カナダは英語とフランス語が公用語となっているが、この表現には注意が必要だ。確かに両国語は公用語で紙幣・切手をはじめ公の印刷物はすべて両国語で記されている。しかし、フランス語を話しているのはケベック州のみに限られ、他の地域では全く通じないと思ったほうが良い。
 ガソリンスタンドには4、5種類のガソリンが売られているのだがフランス語だから全く読めない。ポンプの色とオクタン価から判断するよりほかない。店のおやじも当然のごとくフラン語で話かけてくる。英語で頼むと言うと、私以上になまりの強い英語でしゃべり出した。テレビ・ラジオ・新聞・学校もフランス語だからしょうがない。
 1時間もかかって見つけたYHは嫌な予感がした通り満員で断られた。YHで紹介された安ホテルも同様だった。夜の8時を回りすっかり暗くなってきている。駐車違反といい、満員といい不調の波の真っただ中だ。
 古いモントリオールの街並みはとても美しく、フランス系の巻き毛の美女が多い。街角でキスをしているアベックも他の街より多い。黒のHonda ホーク2に乗る金髪美人がいたので声をかけた。赤く塗られた口紅が妙にセクシーだ。長身のボーイフレンドが現れた。彼はフレンドリーにモントリオールの印象はどうかと自慢げに聞いた。私ははっきりと
「Bud!」
と答えた。
 市内でホテル探しをあきらめ、モーターサイクルの機動性を生かして郊外のモーテルを探した。10時近くになってようやくモーテルにチェックインできた。マネジャーは私の書いたバンクーバーの住所を見て「遠い所からお越しですね」と驚いていた。
 実は、日本からハワイで入国し、LAから走り出しアラスカを回り大陸を横断して…。細かい事情を説明する元気は全くなかった。 バンクーバーからでも充分に遠くなのだ。


1987年8月28日(金)晴れ


 夜中に目が覚めてしまったこともあって10時までゆっくり寝ていた。軽くシャドー1100を水洗いし、さっそく昨日の罰金(駐車違反)を払うことにした。
 銀行の窓口には20人程の列ができていた。北米の銀行はどこも列ができて客を待たせる上にサービスが悪い。5歳ぐらいの子供が私を見て何かフランス語で言っている。
 やっと私の順番がきた。行員は当然フランス語でしゃべっている。半分怒りを込めて英語にしてくれと言うと下手な英語でしゃべり出した。
 違反したオタワはオンタリオ州なので、ケベック州のモントリオールでは罰金が払えないというのだ。どうすれば良いかと相談するとマネーオーダーという小切手のような物を送れば良いと教えてくれた。しかし、27ドルのマネーオーダーには2ドルの手数料が必要なことを後で言われ、ますます頭に来た。さらに封筒に切手を張って送らなければならないのだから踏んだりけったりだ。腹いせに住所・氏名はすべて日本語で書いてやった。
 一息入れようとマクドナルドに入ってもフランス語の世界だった。レジの女の子は「ボンジュール」とあいさつしてきた。ゴミ箱もサンキューではなく「メルシー」と書いてあった。
 旅行中に出会ったフランス人を含めて、私はどうもフランス語は嫌いだ。当然、ケベック州にも良い印象はなかった。しかし、私にも責任があったのかもしれない。よその国を旅する異邦人なのだから事前に勉強しておくべきだったのだ。それが旅を楽しむ方法なのだからだ。
 昼過ぎ、ニューヨーク州(カナダと隣接する広大な州でもある)から再入国した。所持金、アメリカでの働く気の有無、行き先、ナンバープレートなどについて質問された。4,5分で「シー・ユー・レイタ」と言って、パスポートと国際免許書を返して貰い、数日ぶりにアメリカに戻った。


自家製農作物販売所


 州境を超えてバーモント州を走った。アメリカ東部と言っても、この辺りは単なる田舎で小さな湖や森に囲まれた美しい所だ。道が曲がりくねっていてスピードが出ない。
 道端で親子が自家製野菜・果物の販売をしているのを見つけた。珍しさも手伝って立ち止まって見た。ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、リンゴ、キュウリetc.が大きなカゴに入れて売られていた。色や形こそ悪いが新鮮な上に格安だった。
 モーターサイクルひとり旅の私にはほんの数個しかいらないと言うと快くOKしてくれた。小振りのトマト4個とリンゴ6個で1ドル25セントだった。父親は1ドル札を胸のポケットにねじ込み、クォーターコインを子供の手のひらに置いた。子供はなぜか無表情だった。田舎はどこも素朴なものだ。
 田舎町コールチェスターにホームホステルがあるはずなので探したが見つからない。やっと見つけ出すと近くへ引っ越してしまっていたのだ。ようやく見つけ出したミセス・フォールズYHは地下室に手を入れたもので、まだバスルームは建設中だった。そして私が最初の客だった。誰か泊まりに行く人がいたら名簿の最初を見てほしい。
 マネジャーのフォールさんはターキー(七面鳥)ディナーに誘ってくれた。食事代はいらないがヒロシマ・ナガサキ反核運動のカンパを出してくれと言われた。
 夕食には隣の老夫婦も招待され、和やかなディナーとなった。初めて食べるホームメイドのターキーも何の味もなくうまくなかった。アメリカ人が喜んでたっぷりつけるグランベリージャムはまずかった。全員が長そでを着ており短い夏と厳しい冬を実感させられた。
 今日も一人だと思っていると、自転車のアメリカ人がやって来た。彼は私と同じ24歳で、N・Yでフォトグラファーをしているという。N・Yでの再会を約束し、ベッドにもぐり込んだ。


雨のニューハンプシャー州


1987年8月29日(土)雨

 大西洋を目指しI−89(インターステーツ89号線)を南下した。200km程走り、ニューハンプシャー州に入った。雨に打たれかなり寒く体力を消耗ひていた。正午を過ぎたばかりだったが、進むのを断念しモーテルを探し始めた。雨の日は気が弱くなるものだ。
 手当たり次第当たってみたが1軒目、2軒目と満員だった。8月最後の週末のためか空室がない。田舎なのでモーテルもなかなか見つからない。どうにか4軒目にチェックインすることができた。
 バスタブ、TV、電話付きで30ドルと手ごろだった。1日の総予算は30ドルなのでガソリン代、食事代がまるまるオーバーだ。キャンプの日に節約して帳尻を合わせるしかない。1日30ドルで予備費の100ドルを含めて1ヶ月1,000ドルが一つの目安だ。ガソリン代はタダみたいに安いと言うけれど、1日500km以上走る日は10ドル近くかかってしまう。1ヶ月1,000ドルの旅はヒモジイ思いはしないけれど、決して贅沢はできない。さっそく風呂に入り、パンをかじっていると雨が上がってしまった。モーテルに入ってすぐ雨が上がってしまうとは皮肉なものだ。
 私はニューハンプシャー州が好きだ。正確に言うとこの州のモットーが好きだ。
「Live free or Die(自由に生きろ、さもなくば死を)」
は正に新大陸に明日を夢見たアメリカであり、モーターサイクリストのための言葉だ。当然、ノーヘルも許されている。アメリカで好きな州を考えた場合、ノーヘル可の州が頭に浮かんでくる。ノーヘル禁止の州はカナダも含めて好きになれない。普段はヘルメットを着用して走っているのだけど、ノーヘルが許されていると精神的にもリラックスできる。
 手紙を書いたり、バンクーバーに電話をかけたりのんびりすごした。長いひとり旅にはあせりは禁物。こんな1日も大切なものかもしれない。大西洋まであと300km足らずまで走ってきているのだ。


文化都市 ボストン


1987年8月30日(月)曇りのち晴れ

青空とヘルメット

ボストンの夕日。
(マサチューセッツ州 8月)

 田舎道を迷いながらも大西洋へ向かった。一般国道は横からの道や歩行者がいるので走りにくい。こんな道は日本であきあきしている。
 3時過ぎ、メイン州の港町ポートランドに着いた。眼前に広がる大西洋は晴れ渡った空とともにとても青かった。木々の緑とのコントラストが目を引いた。生まれて初めて見る大西洋も実際に見てしまうとただの海にすぎない。
I−95(インターステイツ95号線)を南下してボストンへ向かった。この辺りのフリーウェーはトールロード(有料道路)が多い。ただし、数ドルまでなのでそれ程苦にならない。
 ボストンは環状フリーウェーが整備され近代的な雰囲気が漂っていた。ダウンタウンでフリーウェーを降りYHを探した。ちょうど夕暮れ時で真っ赤な太陽が私を歓迎してくれているようだった。高層ビルにもじゃまされず信じられないような赤が空を埋め尽くしていた。
 写真を撮りたい。しかし、YHを探さなければならない。予約なしのひとり旅では宿探しに大変なエネルギーを使うことになる。サンフランシスコやモントリオールのように満員だったら困る。一刻も早くチェックインしたい。夕日を横目にYHを探した。
 ようやく探し当て、チェックインしたときにはすでに日没していた。夕日と宿探しの時刻が一致することはよくある。昼過ぎ早々にチェックインしてしまえば、ゆっくりと夕日の撮影も可能だが、どうしても欲張って、日没ギリギリまで走ることが多い。観光しながら500km以上走るとなるとどうしても日が暮れてしまうことがある。そのため、何度シャッターチャンスを逃したことだろうか。シャッターチャンスを優先しなければならないのだが、生活を優先させてしまう。見知らぬ街だけにトラブルは避けたい。

 ボストンYHは日本人があふれていた。こんなに多くの日本人旅行者に会ったのは後にも先にもここだけだ。収容人数175人を誇る全米最大級のYHだが、日本人がそこらじゅうにいる感じだった。さすが経済大国日本。
 YHで知り合った男3人女2人の日本人5人で、ダウンタウンのピアノ・バーに遊びに出た。私は初めて乗る地下鉄に興味があった。紙の切符ではなく金属製のトークンと呼ばれる代用コインを60セントで買って回転パイプ式の自動改札機を通った。どこまで乗っても同じ料金で合理的と言えば合理的で好い加減といえば好い加減。
 女の子2人は普通のOL旅行者だったが、男の方は個性的な人達だった。一人はボストンのバークレー音楽大でピアノを志す人で30を超え、最後のチャンスだと覚悟を決めていた。いつまでも男は夢を追いかけ続けたいものだ。
 もう一人は50年配だが派手なヤマモト・カンサイのTシャツを着ている。眼光が鋭く、「や」のつく自由業の方かとさえ思えた。ただ、入れ墨はなく、指は10本ついていた。私は一面識あるようだったが思い出せない。彼は赤坂の私の所へ来たことがあるだろうと言うが、赤坂で酒を飲んだ記憶はない。
 良く話してみると赤坂のメキシコ大使館の人だった。仕事がら、英語とスペイン語を話す快男子だ。世の中、広いようで狭い。この方には、旅行中何度か励ましの手紙をもらい大いに元気付けられたものだ。文中私のことを世界一リッチな青年を書いてきたものだが、一年も自由に旅行するのだから確かにそうかもしれない。
 ピアノ・バーはとても良い雰囲気だった。他のピアノ・バーでも感動したナンバーにビリ・ジョエルのピアノマンがあった。この曲は正にピアノマンのためにある曲に違いない。ビートルズのナンバーではアメリカ人と一緒に歌い出してしまった。

1987年8月31日(月)晴れ

 8時に起き出しすぐにもう一泊する手続きをとった。ボストンには有名観光地が多い。ほとんどの日本人が訪れるボストンの美術館はあいにく休館日だった。MITことマサチューセッツ工科大学をはじめ、ハーバード・ロー・スクールなどの学生街を見て回った。街にも日本人観光客があふれているのに驚いた。もっとも、一歩はずれると日本人はいなくなる。
 市内見物もそこそこにケープコードに向かった。ケープコードは大西洋に突き出した半島状の海岸で、ケネディ一家の避暑地としても有名だ。この時、アメリカ大陸の広さについて日記にこう書いた。


『大平原や砂漠を走って大陸の広さを実感する人は多いが、私は今日ボストンでそれを実感した。北海道の野付半島を旅する気分でボストンを出発し、110〜150km/hで小一時間も走っても岬まで100km以上ある。ここケープコードは有名な避暑地らしいが、ボストンから200kmも離れている。さすがアメリカは広い』


 結局、途中であきらめ夕日の写真を撮りにボストンへ引き返した。天気は昨日とほとんど同じだ。だが夕日の赤は全く別物だった。全く写真とは一期一会だ。
 YHに戻ると国際浪人と出会った。大学には8年通い、アルバイトをしては世界を旅しているという。時間の感覚が普通の人間(少なくとも日本人)とは違っているようだった。決してあせらず、のんびりと悠然と生きている。せっかちな私とは正反対。
 旅の魅力の一つは、いろいろな人と出会えることだ。日常生活では創造できないような人に現実に出会い、自分の持っている世界を広げることができる。私も少々変わり者だが、それ以上の変わり者もゴロゴロしている。カフェーのテラスでビールを飲みながら世界について語り合った。


ついにニューヨーク


青空とヘルメット

エンパイアーステートビルディング。
(ニューヨーク州 8月)

1987年9月1日(火)小雨のち晴れ

 十分に睡眠をとったので体調は上々だった。朝からちらついていた小雨も上がりすべてOK。ボストンからニューヨークまでは350km。1日の走行距離としては短く手ごろは距離だ。
 I−95(インターステイツ95号線)を南下し、ニューヨークをめざした。全米最小のロード・アイランド州はアッという間に通過してしまった。アメリカは日本の約25倍広いけれど小さい州もあるのだ。コネチカット州でフリーウェーを下り、港町のカフェーでランチを食べた。ニューヨークから近いとは言っても田舎町でカフェーのウエートレスは陽気だった。夏も終わりに近かったがセミの声が大きく響いていた。あと1時間あまりでニューヨークだと思うと胸が高なった。
 午後2時。ついにニューヨーク入り。狭いマンハッタン島に限らず、フリーウェーが混んでいた。ガソリンを補給したが20%も高かった。地価が高いのだからしょうがない。他にも大都市があったがなんとなく空気が違うようだった。長くいると病気になるような気さえした。TVや雑誌で見る典型的な風景とはすぐには出会えないものだ。それでもここがニューヨークであることは実感できた。
 西海岸バンクーバーを出てから14日目に9,000kmを走り切って東海岸ニューヨークにたどり着いた。1回目の大陸横断の喜びが込み上げてきた。
 昔、売れないジャズメン達はリンゴばかり食べていた。見た目は立派だが中身が腐った大きなリンゴ。
 これがビッグ・アップルか。



 
 





EZア・メ・カ
2-5 五大湖周辺
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE