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第2章 全米ツアー

第4期 目指せ・大西洋!

大陸横断、初挑戦

青空とヘルメット

明るいうちに宿泊地に到着しリラックスしているマイク・ヨコハマ。まったく、予約のない旅なので体調維持には気を遣う。
(サウスダコタ州 8月)

 アメリカン・ライダーの夢のひとつの形が大陸横断だ。ザッと5000kmの距離と3時間の時差を走り抜くと別の青い海が広がる。
 それまでは西海岸(太平洋側)だけだったので、大陸を横断し生まれて初めて大西洋を拝めると思うと胸が躍った。
 ルートは、バンクーバーを出発しカナダ側でロッキー山脈を越え南下。アメリカに入国し大平原を走り抜け五大湖周辺を観光しボストン、ニューヨークを目指すことにした。
 人口では、メキシコ・シティ、上海、ソウル、東京などに譲るものの世界の経済、文化の中心はニューヨークだ。この街を訪れずして全米ツアーは語れないだろう。シカゴ、デトロイト、トロント、モントリオールと百万都市も多い。
 このルートにはいくつもの見所がある。イエロー・ストーン国立公園をはじめナイアガラの滝は世界的に有名だ。見たこともないのに私の父がアメリカにはナイアガラの滝という大きな滝があると言っていた事を懐かしく思い出した。
 三週間に及ぶこの旅は、かなりリラックスしたものだった。ロサンゼルスからアラスカまで大陸縦断した満足感と自信を自分のものとしていた。英会話力も確実についているようだった。テントやレイン・ウエアも新調し、タイヤ交換をはじめシャドー1100もバッチリ整備していた。それまでは全くの根無し草で孤立していたが、バンクーバーに連絡所もでき心強かった。
 アメリカ北西部は人口密度が低く農業地域であった。ここに住むアメリカ人のほとんどは、キリスト新教を信じる白人で古き良きフロンティア・スプリッツ(開拓者精神)が残っているようだった。それに触れながら大都市だけではない本当のアメリカが理解できるようになった。
 ちなみに、アメリカ人のおしゃれビタミン剤を常用するようになったのもこの時期からだった。


KOA(キャンプ・オブ アメリカ)


1987年8月9日(日)快晴

 バンクーバー郊外のエア・ショー(空軍主催の航空機ショー)を見物に出かけたが、面白くないのでそのまま東へ向かった。
 国道5号線は山間を走る有料道路でおそろしく整備されていた。車の量が極端に少なく、景色はカナダの大自然そのものだった。緑にかこまれたフリー・ウェーを快調にコーナーをクリアーしながらブッ飛ばした。
 料金所が現れた。ナント5ドルと書いてある。日本ではそれ程高いと思わないが、当地では目玉が飛び出す程高いと感じた。TOLL ROAD(有料道路)の標識は気が付いていたが高過ぎる。ところがモーターサイクルは無料だという。私は受付の女性に本当にタダなのですかと念を押してしまった。こっちの勘違いで料金所を通過して後で数倍料金を取られたり、ピストルで撃たれてはたまらないから。
 高速道路での二人乗り(車検証が二人となっていても)を禁止した上に、多人数が乗れ道路を大いに傷める四輪車と同じ高額料金をふんだくる極東の島国も見習ってほしい。
 とても暑い一日だった。カナダで暑いと感じたのは、後にも先にもこの日だけだった。それも4時過ぎが暑く、30度は超えていただろう。ラジオ出演でもらったペプシ・コーラを飲んだ。昼過ぎ、観光案内所で某ラジオ局にインタビューされたのだ。いったい何の番組だったのだろうか。私の下手な英語がオン・エアされたのだ。
 初めてKOA経営のキャンプ場に入った。北米全土に広がり立派な地図も無料で配っていた。キャンプ場はきちんと整備され、管理事務所には食料、雑貨販売やシャワー、コイン・ランドリーに加え、ゲーム・センターまであった。プールもあり日没まで楽しめる。北部ほどプール設備が良いようだ。キャンピング・カー主体のため、電源コードや水道も直結できるようになっており、屋根のないホテルといった感じだった。
 当然、キャンプ代が10ドル以上と高いのが欠点だ。フロリダのKOAだと25ドル以上する。貧乏ライダーは5ドルに割り引きしてほしいものだ。


真夏のアラレ


1987年8月10日(月)晴れのち雨やアラレ

 国道1号線を一路、東へ急いだ。この日の目的地は近年人気急上昇中のジャスバー国立公園にあるバンフだった。400km程なのでそれ程遠くない。
 峠のレストランで食事をとっている時だった。カラカラという音とともに駐車車に白い粉が転がり始めたのだ。真夏にもかかわらずアラレが降ってくるとはさすがカナディアン・ロッキーだ。やみそうにないので新調したてのレイン・ウエアを着込んで走り出した。アラレが雨に変わっても一向にやまなかった。気温は10度あったが、真夏の10度は真冬のマイナス10度の感覚だ。カナダの印象はとにかく雨と寒さだ。僕の夏を返せ!
 2時間も走っただろうか。体の芯(しん)まで冷え切ってしまった。体中の毛穴が硬く締まり体温の低下を防ごうとしていた。
 こんな時、ライダーはモーターサイクルを恨む。どんな排気量が大きいものでも屋根も空調設備もついていないのだ。思考力、判断力が低下していることだけが分かる。しだいに弱気になってくる。一刻も早くホテルにチェック・インしようと考える。熱めのシャワーを前文に浴びたい。温かい毛布のもぐりこみたい。湯気の立つスープを一騎に飲み干したい。とにかく、現状から抜け出すことばかりを考える。真夏の湘南海岸、暑くて座れないシート、花火大会、熱帯夜のことが頭をよぎる。
 目の前にホテルがあるのならどんなに高くてもすぐにチェック・インすることに決め手しまっていた。現金が足りなければクレジット・カードを使うこともすでに検討済みだった。1日の総予算(宿泊代、飲食代、ガソリン代、その他)がたったの30ドルであることは、記憶のはるかかなたに追いやられていた。
 ブリティッス・コロンビアとアルバータの州境にホテルを発見した。小さな湖の畔に建つホテルは必要以上に立派で、日本人宿泊客の多さとともに不思議だった。喜びいさんでロビーに駆け込んだが満員だとあっさり断られた。
 すぐに雨の中に戻る気になれず、カフェテリアでホットコーヒーをすすりながら服を乾かした。


神秘ってなあに?


青空とヘルメット

夏でも寒いことがあるロッキー山脈。日本人ライダーに会うことは珍しい。たいていは、YH。
(カナダ、アルバカーキー州 8月)

 後でわかったことなのだがあの湖こそ、神秘の湖・レイク・ルイーズだった。ジャスパ国立公園南部に位置するレイク・ルイーズは毎夏、オシャレな観光客でにぎわうそうだ。
 雨にけむる湖は私にとって何の印象もなかった。晴れた日は最高なのだと言う人もいたがどうだか疑わしい。アラスカ・ツアーの道中で出会った無数の湖は雨だろうと晴れだろうと感動を与えてくれたものだ。それらの湖には観光客向けの名前もホテルもついていないが、自然の美しさは決してレイク・ルイーズに劣らないと信じている。ただ、神秘の湖は比較的交通の便が良く、観光開発が進んでいるのだ。神秘は手軽である必要があるものだろう。

 とにかくバンフまで行こう。雨の中をひた走り6時過ぎにバンフのYH(ユース・ホステル)にたどりついたが、マネジャーは無情にも満員だと宿泊を断った。キッチンでもロビーでも良いからとく下がったが無駄だった。私は力なくその場へへたり込んでしまった。
 冷え切った体を重い足どりでひきずって表へ出ようとしたとき、ひとりの口ヒゲの日本人が離し掛けて来た。彼もHonda CBX550でカナダを旅していると言うのだ。さらに私のシャドー1100をバンクーバー市内で見たと言うのだ。日本人ライダーに出会うのは二人目だ。
 とにかく、宿を探すのが先決だ。彼の話だともう一軒YHがあると言う。道順を教えてもらおうと再び受付に行くとひとつだけベッドが空いたと言われた。つい数分前だめだといったのに不思議な話だ。事情はどうであれ9ドルで屋根付きにとまれるのはラッキーだった。
 日没後も次々に旅行者がやってきた。観光シーズン真っただ中なのだ。その多くはヨーロッパ系(ドイツ人が多い)のバック・バッカー(荷物を背中にかついで歩く旅行者)達だった。満員だと断られ別の宿を探す後姿は気の毒だったが、私にはどうすることもできなかった。


温泉とホット・スプリング


1987年8月11日(火)曇り一時雨のぐずついた天気

 寒い朝だった。玄関先の温度計を見るとたったの6度しかない。繰り返し言うが8月の前半なのだ。世間では夏といわれる季節のはずだ。屋根付きの所で眠れたことを改めて感謝した。
 前日、出会った日本人ライダー戸谷肇(ハジメ)さんといっしょに街はずれの温泉へ出掛けた。こんな時もモーターサイクルはとても重宝する。温泉のことを英語でホット・スプリングと言うが、両者は全く別のものと考えた方が良い。日本とヨーロッパでは風土も文化も違うのだから当然といえば当然だ。
 温泉とは、宿泊、宴会をも含めた観光保養地だが、ホット・スプリングは入浴が主体のただの温泉プールで臭いの強いものは敬遠される。すべて混浴だが、老若男女が水着をつけて入る。スイス人の女の子達が珍しそうにのぞきこんでいたが、一向に入ろうとはしない。私はマイク、彼はハニーと紹介すると彼は慌てて、トニーと訂正した。ハジメをもじってハニーにすると女の子になってしまう。話を聞いてみるとスイスには温泉がなく初めて見たそうでそのまま帰ってしまった。 
 食事のため、ダウンタウン(中心街)に戻るとトニーがホンダXL250を発見した。ライダーは知り合いの日本人だと言うのだ。さらに驚いたことに私も1ヶ月前にカリフォルニア大学で会っていた。金田君は名古屋大学の現役の学生で、夏休みを利用して北米大陸を旅していた。日本人ライダーが旅先で三人も集まったのは後にも先にもこの時限り。
 三人で街に一軒のチャイニーズ・レストランで食事をした後、近くの滝までツーリングした。
 この日もバンフのYH(ユース・ホステル)に泊まることにした。三人でお金を出し合いカレー・ライスを作って食べた。カレー粉はバンクーバーから持ってきていたが、他の材料はスーパー・マーケットで簡単にそろった。こんな時のカレーはとにかくうまい。カレーの出来具合なんて関係ないのさ。


田舎の博物館


1987年8月12日(水)晴れ

 二日ぶりの晴天だったが、気温は2度と凍るような朝を迎えた。ライダー仲間と「走っている時は20度を割ると寒く感じるよな」と話していたのが妙にむなしかった。駐車場のモーターサイクルを見るとどうも様子がおかしい。近づいて見ると全体に霜が下りて真っ白になっていたのだ。夏は暑いという常識は万国共通ではないのかもしれない。
 三人の日本人ライダーは別々の方向に走り出して行った。私はオリンピック準備中のカルガリを目指した。カルガリはゆったりと広がった都市で、これといった特徴は無かった。いく分、暖かさを増してきたが7度しかなかった。1988年冬のオリンピックの最中は気温が20度にも達し、雪や氷が解け出し困ったのだから皮肉なものだ。

青空とヘルメット

国の歴史が高々200年しかないアメリカでは少し古いものでも博物館に列んでしまう。大文字と小文字が別々のキーになっているタイプライター。
(カナダ、アルバカーキー州 8月)

 カナダ国道2号線を南下し、国境に近づくにつれてガソリンの値段が下がり、アメリカ本土のそれに近づいていくのが面白かった。

 初めて入場料(1ドル)を払って博物館へ入った。北米はかなりの田舎町でも博物館はあるものだ。バッファローや牛の首、古めかしい家具、洋服、毛皮、写真、雑貨、コインが展示してあった。当地の歴史を語る品々なのだが、たいした価値のない、ガラクタばかりと言っても良いだろう。大体、200年やそこらの歴史で何があるというのだ。いや、何も無いからこそ歴史にあこがれるのかもしれない。人間は無い品ねだりの天才だ。
 受付の70歳を過ぎた白髪(銀髪だったのだろうか?)のおばあさんが1時間も掛けて、別棟の小学校跡まで丁寧に案内してくれた。展示物よりも「サンキュー・フォー・ユーアー・カミング」のゆっくりとした一言が印象的だった。
 モンタナ州との国境で、滞在期間、シャドー1100の所有者、帰りの航空チケットなどのチェックを受け入国した。インターステーツ15号線を150km/hの猛スピードで走ってモーテルを探した。グレート・フォールズでモーテルにチェック・インしたときは、シャドー1100のラジエーター・ファンは回りっぱなしの上、アイドリングが上がり、燃費はメチャクチャに悪かった。私は体がガタガタと震え、食事もとらず10時間以上眠った。


天然露天温泉


1987年8月13日(木)晴れのち雨


 モンタナ州都ヘレナでケンタッキー・フライド・チキンを食べた。実に24時間ぶりの食事だった。ヘレナはゴールド・ラッシュでできた古い街並みと教会の美しい感じのよい街だった。散歩にはもってこいだ。住人のほとんどが白人で日本人は8人しか住んでいないという。
 モンタナ州は日本にもっとも近い州だ。近いといっても距離ではなく、面積のこと。人口は100万人足らずで広々としている。キャッチフレーズでは「ビッグ・スカイ」だが、空が頭の上に迫っている感じで「ロー・スカイ」と思えた。カルガリからヘレナまでの大平原が最も大陸を感じさせる風景だった。
 4時ごろ、イエロー・ストーン国立公園北部のマンモス・キャンプ場にテントを張った。これ以後、多くの国立公園を見たが、雄大さで対抗できるのはグランド・キャニオン国立公園だけだった。イエロー・ストーン国立公園の良さは文章や写真で表現できないのが残念でならない。野生動物の宝庫、名勝というだけでは悟りつくせないものが目の前に圧倒的存在感で広がっている。自然を愛する人には是非とも訪れてほしい。
 キャンプ場近くの温泉は大変ユニークかつ危険なものだった。川の中流で温水と雪解け水が混わる所で入浴するのだ。川の流れが強く子供なら流されかねない。温水はやけどしそうな程熱く、冷水は凍傷になりそうな程冷たかった。適当な場所を探すにはテクニックが必要だ。足場も悪いのでスニーカーのまま入った方が安全。天然露天温泉には管理人もいなく、トイレと駐車場があるだけで無料だった。湯上がりにシャワーでもあれば良いのだが、そのまま上がるしかなく、髪の毛がパサパサになって困った。
 キャンプ場に戻り、ラーメン・ライスを作っていると急に雨が降り出した。慌ててテントにかくれ、中で夕食をとった。飯台はジュラルミン製カメラバッグが手ごろだ。野宿とはいつもこんな感じだ。


ギャル・ライダー


1987年8月14日(金)曇りのち晴れ

青空とヘルメット

女性ライダーの数は日本の方が多いだろう。イエローストーン国立公園の壮大さには度肝を抜かれた。グランドキャニオンとここは別格。
(ワイオミング州 8月)

 テントをたたみ、別のキャンプ場へ移動しようとした時、日本人家族と出会った。バンクーバー在住の吉沢さん一家だった。小学一年生の男の子と三人で旅行中だということだった。日本茶とクッキーのもてなしを受けバンクーバーでの再会を約束して別れた。キャンプ場で日本人に会うのは最初で最後だったので驚いたが、彼らは私を見てもっと驚いた様子だった。
 曇りの天気ながらとても寒い日だった。イエロー・ストーン国立公園内のブリッチ・ベイ・キャンプ場に入ったものの、強風でテントがなかなか建たない。さらに、ガソリン・ストーブを吹き消されてしまい、ゆで卵を作るのも一苦労だった。
 81年型ローライダー(ハーレー・ダビットソン製1360cc)に乗るキャロルに出会った。
 彼女はフロリダ州キーウェスト出身の25歳のアメリカ人だ。5月1日にフロリダを出発して11月1日までの予定で全米を一周する計画だった。ニューヨークではアルバイトをしてお金を稼ぎ全行程をキャンプで回ると言っていた。さぞや、強靭な女性かと思うかもしれないが、身長160センチと小柄でキャシャな体格だった。青いひとみの澄んだ魅力的な女性だった。フロリダで会いたいとクリスマス・カードを送ったが返事にロード・アイランド州に引っ越したので会えないと書いてあり、非常に残念だった。
 男女平等の国・アメリカは女性ライダーが極めて少ない。全ライダーの3%程度だ。旅行先でも街中でもほとんど見かけない。モーターサイクルは男の、しかも荒くれ男の乗り物といった感じだ。日本のようにややダーティーな見られ方もあるが、独立心の強い勇敢な人間とも見られている。
 近くの湖を観光したり、手紙を書いたりのんびり一日を過ごし、ビールを飲んで寝袋にもぐり込んだ。


輝いて見えたシャドー1100


1987年8月15日(土)雨

 2時間も寝ただろうか。猛烈な寒さで目がさめてしまった。ビールの酔いが醒め、寒さに拍車をかけていた。体を丸めて寝ようとしても、どうしても寒さに勝てない。
 キャンドル・ランプに火をつけた。わずかな発熱体にすがる気持ちだった。当然、何の効果も得られない。テント内でガソリン・ストーブをたくことも考えたが、どうにか押しとどめた。テントの取扱説明書には、火気厳禁とあるし、万一テントに引火すれば焼死することは無いにしても、寒空に焼き出されることになる。下手をすれば凍死するかもしれない。
 そのうち雨まで降ってきた。とても冷たい雨だ。皮ジャンパーをはじめ、着込めるだけ着込み、レイン・ウェアやタオルを寝袋にかけて寒さをしのいだ。最も効果的だったのはライダー用フェイス・マスクだった。首まですっぽりかぶるもので、目と口だけあけてあるものだ。頭からの熱の放出は予想外に大きいものだ。
 ウトウトしただけで7時にはテントをはい出した。雨は小降りになっていたが、張り詰めた空気はそのままだった。無色透明で時間の流れさえ止まって見えた。愛車シャドー1100を見るとなんとなく輝いていた。雨に打たれて色男になったのだろうか。近づいてシャドー1100に触れてみて驚いた。なんと雨滴が凍っていたのだ。水と氷では光の屈折率が違うため輝いて見えたのだった。水が氷に変態したのだから氷点下にまで気温が下がったのは間違いない。
 こんな寒い所からは一刻も早く逃げ出そう。冬ならともかく8月なのだ。テントの内を片付け出発の準備をした。レイン・ウェアまで着込み、いつでも飛び出せるようにした。あとはテントをたたみシャドー1100に積み込みさえすれば逃げ出せる。テントの中でヒザをかかえ、雨の止むのを祈りながら待った。


家族


 「Hey,Japanese friend!」
とテントの中の私を呼ぶ声がした。このキャンプ場の東洋人は私だけだ。出入り口のファスナーを開けると白人のおじさんが
「Would you like breakfast with us?」(家族と朝食はどうだい)
と微笑を浮かべてゆっくりとしゃべった。せっかく、誘ってくれたのを断るのも失礼なので好意に甘えることにした。
 隣(と言っても50mは離れている)でたき火を楽しんでいるマヒュウさん一家だった。三男一女の6人家族でモンタナ州から2週間の予定でキャンプを楽しみにきていたのだ。家族用の大きなテントでオートミール、コーヒー、果物の朝食をとった。
 一緒に観光しないかと誘ってくれた。一刻も早くイエロー・ストーン国立公園を逃げ出そうと考えていたが、マヒュウさん一家と行動をともにすることにした。
 車に乗り込み、世界最大の間欠泉(決まった時間をおいて噴き出す温泉、数十メートルも噴き上がり大勢の観光客が待ち構えている)オールド・フェイスフルをはじめ、公園内を見て回った。コースは私の意見も大幅に取り入れてくれた。辞書を引きながらも楽しく会話をして過ごした。日本の事にも関心が深かった。彼は私に「冬はハンティングをするのか」と聞いたが、日本でハンティングをする人はほとんどいないと答えた。北米との文化の違いは大きい。
 バッファローやヘラ鹿、熊を直接見ることができた。イエロー・ストーン国立公園は別府の地獄巡りとサファリ・パークと北海道東部が合体したような所だった。
 マヒュウさん一家は「大草原の小さな家」のようなホノボノ家族だった。父はたくましくたき火を作り、車を運転し、家族をまとめる。母は食事を作り、やさしく家族を見守る。子供たちは自然の中で伸び伸びと両親を見て育つ。遠くからの客(私)をもてなす親切心。西部開拓時代のフロンティア・スピリット。都会ではとっくに崩壊してしまった「家族」に会う事ができた。
 この日は、42年前に不幸な大きな戦争が終わった日だ。


ラピッド・シティ


青空とヘルメット

大草原の小さな家に出てくるような温かい「家族」。アメリカの家庭崩壊は日本以上だが、ほのぼの家族も存在する。
(ワイオミング州 8月)

1987年8月16日(日)曇りのち晴れ、一時雨

 この日も寒かったが6時におきて出発の準備にかかった。早起きのマヒュウさんも手伝ってくれたので早く片付いた。昨日の夕食に続いて朝食もマヒュウ家のお世話になり、素晴らしかった3泊4日のイエロー・ストーン国立公園を後にした。
 バンクーバーの友人ナオに電話を入れた。私あての郵便物が2通着いていた。その場で読んでもらい、これから行く予定のニュージャージー州の知人宅へ転送を頼んだ。心強い友人がいると旅の幅が広がるものだ。これ以後も週1回くらいは連絡をとった。
 アメリカ西北部のワイオミング州はいまだにカウ・ボーイの人口が多い地域だ。マクドナルドのイスの一部が馬のくらになっているものがあった。インテリアかと思っていたら実際に座る人がいたので二重に驚いた。今だにウェスタン風カウ・ボーイ・スタイルの人も珍しくない。珍しいのはモーターサイクルに乗った東洋人の方だ。子供がお母さんの影から指差すことも多い。
 U・S16号線を東へ走った。高度が下がるにつれて幾分暖かくなってきた。山をかけ降りたため燃費が27km/lにも伸びた。3000m級のグランナイト峠はとても寒く、頭の中はグリップ・ウォーマー(電熱線でハンドル・グリップを暖めるモーターサイクル・アクセサリー)のことだけだった。真剣に購入を考えたが、平地に降りて暖かくなるとコロッと忘れてしまうのがなんとも人間らしかった。
 7時過ぎ、サウス・ダコタ州のラピッド・シティに着いた。決して大きな街ではないが、気のきいたピザ・ハウスくらいはあった。ここのYHは1泊3ドル50セントと全米一の安さだった。うれしいことにバスタブがあった。2、3日風呂に入ってなかったので、涙が出るほどうれしかった。特にシャワーでは満足できない日本人の私には、何よりのごちそうだった。喜びいさんでバスタブに飛び込み、800kmの長旅の疲れをいやした。


日米文化摩擦


1987年8月17日(月)快晴のち雨

 世界的に有名なマウント・ラシュモア・ナショナル・メモリアルへ出かけた。この名前を聞いても大多数の日本人は分からないかもしれないが、4人の巨大な大統領の顔と言えばCMなどで見たことがあるはずだ。向かって左から、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、アブラハム・リンカーンの順だ。あの彫刻はサウス・ダコタ州にある。
 観光地というものはどこも同じようなもので、見ると「ああやっぱり、こんなものか」と思うだけで終わるものだ。大した感動もなく駐車場に戻ると、かなりの年配の夫婦がモーターサイクルに乗ろうとしていた。明らかに私の父の年代より上だ。白人の年齢はわかりにくいものだが、50歳を超えているのは間違いなかった。
 Honda GL1200にまたがろうとしている男性に「失礼ですけどおいくつですか?」と丁寧に聞いてみた。彼は、
「I am 65 years old. She is too.」とうれしそうに答えた。
 そんなおばあさんの年は知りたくもないと思いつつ、彼女の方へ目を移すと、65歳の女性は自らホンダ・レブル450にまたがっているのだ。前にも書いたが、アメリカでは女性がモーターサイクルを運転することは極めてまれなのだ。さらに65歳の高齢だ。老夫婦が一台のモーターサイクルで旅行するのは珍しくないが、それぞれが運転するのは珍しい。2台はトロトロと走り出して行った。
 私は巨大彫刻以上に驚き、言葉を失った。大正生まれの老夫婦ライダーがこの世にいるなんて。
 名前とは裏腹に素晴らしいバットランド国立公園、プレスリーのハーレー・ダビットソンだけが自慢のパイオニア・オート博物館を観光しながら、I−90(インターステイツ90号線)を東へ急いだ。タイム・ゾーンを超えたこともあり、思ったより進めなかった。別に予定があるわけでもないので、KOAのキャンプ場にテントを張った。


アメリカのド田舎


青空とヘルメット

文字通り満点の星空。ゆっくり空を眺めることが出来るのも旅の良さだ。
(サウスダコタ州 8月)

1987年8月18日(火)晴れ

 走り出してすぐ、ハチに刺された。首筋の左後ろだったが、2度目ということもあり、それ程に慌てなかった。これ以後もハチに刺されたが、自然の宝庫アメリカ大陸ではいたしかたない。ヘルメットはハチよけの意味も大きい。
 この辺り(サウス・ダコタ州)の風景は抜群に良かった。左右は見渡す限りコーン畑の緑一色だ。一度だけヒマワリ畑の黄金のじゅうたんが現れた時には視線が釘付けになってしまった。空は基本的に青空だが、大きな丸い雲が浮かんでいる。白い雲は地平線のかなたまで断続的に続いている。雲にはかなりの厚みがあり、その下は完全な日陰で寒い。私はこの雲を『ダコタ雪』と名付けたが大陸の中央部のあちこちで見られた。
 フリーウェーはどこまでも真っすぐでほとんど車は来ない。高架ではなく、壁もない。時折、巨大なトラクターがフリーウェーを横切ったりするので驚いてしまう。フリーウェーの両側ともあの農夫のものだのだろう。知らず知らずのうちに速度が上がってしまう。大平原にモーターサイクル1台ではスピード感はない。
 4時すぎ、グレイのYHに着いた。幹線道路から外れた田舎型のYHだ。元々、スキーロッジだったようで居心地は良かった。ベランダのソファでくつろいでいると虫の音が静かにそよいだ。
 宿泊客は週に2、3人。当然、この日も私一人。2日前にドイツ人の女の子2人がレンタカーできたらしい。YH発祥の地、ドイツ人にはかなわない。
 すっかり夜になり、何気なくベランダに出てハッと息をのんだ。夜空が星で埋め尽くされていた。真に満天の星空とはこのことだ。よく星の数ほどあるというがその通りだ。自慢じゃないが私は田舎育ち。その私が腰を抜かす程驚く星空がここにあった。
 ダコタはアメリカのド田舎なのだ。



 
 





EZア・メ・カ
2-4 目指せ・大西洋!
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE