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第2章 全米ツアー

第3期 アラスカ・ツアー(後半)

北米最高峰マッキンレー


1987年7月27日(月)晴れ

 フェアバンクスからアラスカ・ハイウェー3号線を南下してアンカレッジへ向かった。
 右手にマッキンレー山が見えた。北米一の標高6194mを誇っている。山の近くにはバス・ツアーに参加しなければ行くことはできない。もともと山登りには興味がないので素通りすることにした。
 山は少しも美しいとは感じなかった。日本の山といえば火山が相場だが北米の山は褶曲山でなだらかな山が多い。デコボコの山脈が続き雪で白くなっているだけだ。霊峰・富士を知っている者は、あれ以上の山を見ることは難しい。

青空とヘルメット

120kh/hで走るライダーを反対車線に飛び出して撮影。
(アラスカ州 7月)

 尊敬する植村直己氏が帰らぬ人となった事を思い出した。氏の知名度があまり高くないのが残念だった。世界中に登山家、探検家がいるのだから無理もないことかもしれない。 途中、地元ナンバーのおじさんライダーがガス欠で立ち往生しているのを助けた。予備兼ストーブ用のガソリンは常に1リットルだけ積み込んでいたのだ。アラスカ州はノーヘルが許されているので、このおじさんライダーもノーヘルでついでにハゲ頭だった。
 グングン気温が上がってきた。北緯60度を軽く超えているのが信じられなかった。快適にドンドン走った。燃費もリッター当たり22kmまで伸びだ。ガソリンスタンドではヘルメットシールドを必ず掃除しなければならない。信じられない程、虫が多い。
 数週間ぶりにノーヘルで飛ばしてみた。気持ちが良い。危ないとは感じないものだ。
 ただ、顔面に様々な虫がぶつかってくるのには閉口した。夏のアラスカ名物・蚊は絵はがきやウッド・クラフトになって売られていた。コガネムシ、チョウ、ガ、時にはハチもぶつかってくる。
 虫の死がいのこびりついたサングラスはグロテスクだ。虫の方からすれば私が勝手に鉄の馬に乗ってぶつかってくると文句を言っているのかもしれない。
 皮ジャンパー、皮パンツ、ライダーブーツにも虫の死がいと体液がこびりつきニチャニチャする。泥と混ざり合ってグチャグチャだ。バンクーバーに帰ったらすべてを洗濯するぞ!と決意した。


大都市・アンカレッジ


 700kmを苦もなく走り切った。午後4時を過ぎても暑さは変わらなかった。
 アンカレッジはロサンゼルスのようだ。フリ−ウェー、暑さ、雑多な人種、、陽気さ、そしてオンボロ車だ。工事のため、フリ−ウェーは渋滞していた。
 モーターサイクルに二人乗りした少年は、川へ泳ぎに行くと言っていた。なんと上半身裸に短パン姿だ。当然、ノーヘル、ノーグローブ。私もノーヘルで走ったので日に焼けて顔が痛かった。
 ダウンタウン(中心街)でジャパニーズ・レストランに入った。観光客を当て込んだ大きなジャパニーズ・レストランが何軒もあった。日本食はバンクーバー以来、1週間ぶりだ。
 ミソラーメンとライスを注文した。全然うまくなかった。日本人女性客が多かったが、私をまるでこじきでも見るような感じだった。
 ダウンタウンのYH(ユース・ホステル)にチェックインした。立派なビルで料金も10ドルと立派だった。
 荷物の搬入を手伝ってくれたアラスカ青年・マイクと仲良くなった。YHに泊まる時は荷物の搬入を誰かに手伝ってもらうことが多い。缶ジュースのお礼などを渡し友達になるのには良いきっかけだ。
 彼は身長2m、体重120kgの大男だ。私は身長165cm、体重54kgの軽量級だ。シャドー1100に乗せてくれというので郊外の丘へ夕日を見に行った。ノーヘル、二人乗りで160km/hを超えるとさすがに恐怖を感じた。
 YHに戻ると彼は「マイク」を漢字で書いてくれとTシャツを持ってきた。私が「マイク」と名乗っていたので漢字で書くと思ったらしい。50人の泊まり客で東洋人は私一人だった。
 私は考え抜いた末、「魔韋来」と書いた。「来」は「ク」ではなく「コ」と発音すると英語らしく聞こえる。


ユニークなYH


1987年7月28日(火)晴れのち雨

 朝のアンカレッジ国際空港を見学し、アラスカ・ハイウェー1号線を走り出した。小きざみなアップダウンが続き時々、シャドー1100が地球から離れた。
 再びトークに戻って来た。前回は25ドルの安モーテルに泊まったが、5ドルYH(アメリカン・ユース・ホステル)があることが分かったのでそれを探した。

青空とヘルメット

軍隊に体験入隊したかのようなYH。電気も無い。
(アラスカ州 7月)

 トークのYHはユニークさは全米一だろう。まず、その場所だがトークから西へ12km走る。問題はその先だ。ハイウェーから入っていく道は当然未舗装だがただものではない。木を引き抜いただけなのだ。大きな穴があり、粘土質のダートは極めて良く滑る。
 YHの標識に従い3km程進み、さらに右折した所にトークYHは建っていた。針葉樹林の獣道に小屋があると思えば良い。床はなく、なんとテント張りだった。
 暗いテント小屋は無人だった。小屋には電気も水道もなく、トイレは別棟のくみ取り式だった。窓はビニールで風に吹かれていた。

 あるトラブル(後述)を切り抜け、テント小屋でくつろいでいると人が入って来た。本業がきこりのマネジャーだった。
 朝の冷え込みに備えてドラム缶製のストーブを使おうとした。マネジャーにたきぎはどこかと尋ねると、やおら壁に掛けてある大きなノコギリを手に表に出た。横たわっている数本の木を指さし、切れと言うのだ。
 グリーンベレーに体験入隊したわけではないのにと心で叫んだ。色男の私には、金と力はない。
 壁に大きなノコギリがあることは最初から気付いていた。きっとアメリカ人の好きなアンティック(古道具)の一種だと思っていた。まさか実用品とはさすがアラスカだ。
 マネジャーはどこかへ帰っていったので、小屋には私一人になった。少々心細いが個室いや一軒家で寝るのも悪くない。


冗談じゃないガス欠


 実はトークでトラブルというかアクシデントが起きた。
 テント小屋YHからガソリン補給に向かった時だった。ガソリンがほとんど空なのは知っていたが、スタンドまでは大丈夫と考えていた。
 ハイウェーに出てすぐだった。最寄りのガソリンスタンドまで10km離れていた。予備のガソリンはテント小屋の中だ。歩いて取りに戻るには遠すぎるし、あのラフロードを往復するのはご免だ。
 重量200kgのシャドー1100を押してみた。一向にアラスカの風景は変わらなかった。ガソリンスタンドは地平線の遥か彼方だ。
 シャドー1100を押すことは断念し、通りがかりの車を止めることにした。午後8時をすぎたアラスカ・ハイウェーは数分に1台しか車が通らない。何台か無理やり止めて引っぱってくれるように頼んだが断られた。9台目のドライバーはガソリンを買って来てやると言ってくれた。
 待つこと1時間。戻って来ない。おかしい。私の英語が通じなかったのか。彼は私を見捨てたのか。いろいろな考えが頭をよぎる。
 そのうちご丁寧に雨まで降ってきた。小雨程度であったが木の陰に避難した。少し走るだけと考えていたのでノーヘル、ノーグローブだけに寒い。小さな松ボックリを集めて火を付けた。私は極端な嫌煙家だが、キャンプ用にライターは携帯していた。
 こんなにわびしいことはない。ハイウェーに置きざりにされたシャドー1100がうらめしい。ガソリンがなければただの鉄、いや鉄クズに過ぎない。
 頼んだのとは別の人がガソリンを入れてくれた。事情はわからなかったがとにかく助かった。
 最寄りのガソリンスタンドまで走り、十分に給油した。シンシン冷たい水で洗車した。
 帰りにはすでに雨が上がっていたが濡れた路面はドロ水を跳ね上げ、折角洗車したシャドー1100をドブねずみに変えてしまった。


自転車野郎


1987年7月29日(水)晴れ

 4日ぶりに国境を越えてヨーグさんの家に急いだ。ヨーグさんはユーコン準州ヘインズ・ジャンクションでビールとハムサンドをごちそうしてくれた。ドイツ系カナダ人でハーレー・ダビットソン(アメリカ製大型モーターサイクル)を持っている。昨夜、電話で泊めてくれるように頼んでいたのだ。
 途中、自転車で世界一周の旅に出発したばかりの井上洋平君(22)と出会った。テレビ「なるほどザ・ワールド」にも出演しているので知っている人も多いだろう。いっしょにヨーグさんの家に行くと「ノー・プロブレム(問題ないぜ)」と歓迎してくれた。
 井上君の話によると他にも日本人自転車野郎がアラスカ・ハイウェーを走っているという。翌日にも自転車野郎に出会いコーラをいっしょに飲んだ。(彼とはロサンゼルスで再会し、帰国後名古屋でも旧友を暖めあった)モーターサイクルで旅するのも変わりものだが、自転車には頭が上がらない。
 自転車で1日に走る距離をモーターサイクルでは1時間で走れる。モーターサイクルで1日に走れる距離をジャンボ・ジェット機は1時間で飛んでしまう。
 ヨーグさんは妻と2人で大きな家に住んでいるがあいにく妻は旅行中で留守だった。
 3人で好きなだけビールを飲み、大いに語り合った。井上君は北米の後、南米、アフリカ、ヨーロッパを回る計画を話した。ヨーグさんはソウル・オリンピックは実現不可能だと考えていた。とにかく問題が多過ぎるというのだ。無事、オリンピックが終了し、とにかく良かった。
 ヨーグさんはガンマニアでピストルからライフルまで10丁程持っていた。部屋の中で空砲を撃って私達を驚かせた。
 私は耳がキーンと高鳴り、体中の力が抜けた。絶対に戦場へ行っても怖くて闘えないと思った。世界平和を一刻も早く速やかに実現したい。


悪夢の転倒


1987年7月30日(木)晴れ

 朝6時に起きた。かなり眠かった。前日にタイム・ゾーンを越えていたのでアラスカ時刻ではまだ5時だ。
 実は前日ヨーグさんの家に着くのが約束より2時間近く遅れたのだ。トークのテント小屋で寝坊したことと、時差があることを忘れていたのだ。そのことをヨーグさんに話すと「ノー・プロブレム(問題ないぜ)」と気にもとめていないどころか、さっきまで雨だったので遅れて良かったと言ってくれた。
 大陸横断をすると何度もタイム・ゾーンを越えることになる。巨大なジャンボ・ジェット機ではなく、ひ弱なモーターサイクルでの時差越えは感動的だ。なにしろ私がささえてやらなければ倒れてしまう程、ひ弱なのだから。
 家の中にいても十分寒かった。地元のヨーグさんは「プリティ・ワーム(かなり暖かいぜ)」と言っていたが、厚手のジャケットを着て出勤していった。冬はどうやって暮らすのだろうか。
 早起きして出発したので距離がかせげると思った。昼過ぎには500km先のワトソン・レイクに着けると思った。調子が良ければあと2、300km進めるだろうと考えた。
 幸い天気も良くなりそうだった。ただし、寒さは厳しく空気が張りつめていた。海岸山地のど真中だからしょうがない。
 路面の状態も悪くなく、車は1台も走ってなかったので120〜140km/hで走った。
 アラスカ・ハイウェーの特徴は道路そのものより落下物にある。バースト(破裂)したタイヤの残骸と野性小動物(リスが多い)の死骸の異常な多さだ。特に、ヘビのようにグロテスクなタイヤは恐怖だ。猛スピードで数千kmも走るのだからバーストするのも無理はない。たった2本のタイヤの無事を神と仏に祈るしかない。
 風が冷たいので両足とも後のステップにのせ、ほとんどうつぶせで運転した。こうすると寒さと風圧を避けられるのでスピードが出せる。「雲の生まれ出づる所」はこの日も異様に美しかった。


 その時、全米ツアー最大のアクシデントが起こった。
 気を抜いた走行をしていた。両足とも後ろのステップに掛けていたため、ブレーキ・ペダルが踏めない。シフトダウンもできない。姿勢を戻す余裕もなかった。
 急な左コーナーはどんどん近づいてくる。思い切り倒し込んでクリアーした方が良いか、あっさり路肩の右側に飛び出した方が良いか。とにかく減速だ。
 前輪ブレーキだけを使って減速しながらコーナーに入っていった。あえなく前輪が浮き砂に流された。この世に神も仏もないのか。
 急ぐあまりのオーバー・スピード。寒さを避けるための無理な姿勢。地図の不確認。レイン・ウエアの着脱時期。一歩間違えると取り返しのつかない事になりかねない。
 すべてを自分自身で決断し実行しなければならない。それがモーターサイクルひとり旅なのだ。
 左の肩、腕、腰、膝、足首そして、ヘルメットもハイウェーにたたきつけられた。朝のユーコンを地上5cmの超ローアングルから観光することになった。
 意外とダメージは少なかった。少し出血はあったが立ち上がることもできた。皮製のライディング・ギアに助けられたようなものだ。
 40kgの荷物をすべて外した。所々にダメージを受けたがカメラは生きていてくれた。
 250kgのシャドー1100を引いて起こした。タンクを含め左側を痛めたが走れそうだった。このアクシデントの30分間に通ったのは2台のキャンピング・カーだけだった。
 この日の事は日記にこう記されている。


 「悪夢の転倒。大したことはないが私はくよくよしてしまう。今までだってパンク、転倒、事故、違反など数多くやってきたが、今となっては何のわだかまりもない。時がすべてを解決するのだ。今回の旅(全米モーターサイクル・ツアー)は強い自我を作るためのものではないか。ガンバレ、マイク。」


カナディアン・ロッキー


1987年7月31日(金)雨

 未明からの雨は、テントに侵入しほとんどの荷物を濡らした。幸い屋根付きのピクニック・エリアには薪(たきぎ)ストーブがあった。雨で湿っているためなかなか火が起きなかった。紙に火を付け、極端に細い枝から順に大きなたきぎをつなげていった。
 前日、テントを張ったワトソン・レイクは2本の国道の分岐点になっている。一方はアラスカへの往路に使った国道37号線で、他方は未知の国道97号線だ。数100kmもダート・ロードの続く37号線は二度と通りたくなかった。従って97号線を選ぶことにした。他に道などないのだ。
 ブーツやテントもほぼ乾き、雨も小振りになってきた。午後1時に出発する暴挙に出た。このままとどまっているのは苦痛だし一刻も早くバンクーバーへ帰りたかった。
 97号線はカナディアン・ロッキーを縦断する形になっている。大半は舗装路なのだが手抜きしたのか継ぎだらけだ。山岳部のため、アップダウンと高速コーナーが続いた。それでもダートの37号線よりは10倍ましだ。
 がむしゃらに400km走り、サミット・レイクのモーテルに入った。銃声が聞こえるので表を見てみるとライフルの練習をしている男がいた。地元の人達は別に驚いた様子はなかった。標高1295mのこの辺では何をやってもいいのだろうか。
 モーテルではストーブを全開にした。寒さのためもあるが濡れたものを乾かすためだ。
 左奥の親知らずが痛み出した。精神的疲れが原因のようだった。渡米前に歯はすべて直してきたのだが、親知らずは大丈夫だろうとそのままにしてきたのだ。歯が痛くなるとただでさえまずい食い物がますますまずくなるのでたまったものではない。
 人間は多分にメンタルな生き物だ。


1987年8月1日(土)雨時々曇り

 国道97号線を必死で南下した。フォート・ネルソンという町で久しぶりに中華料理にありつけた。パン嫌いの私にはごちそうだ。
 こんな田舎にもツーリスト・インフォメーション・センター(観光案内所)はあった。地図をもらったり泊まる所を紹介してもらう他にも利用法がある。トイレが清潔な所が多いので是非利用すべきだ。コーヒーやコーラ、クッキー類を無料で出す所もあるので遠慮は無用だ。私はチャイニーズ・レストランを聞くことが多かった。
 横なぐりの強い雨であえなくストップ。雨でヘルメット・シールドが曇り視界が悪い。目をかき開いて進むため、二度もソフト・コンタクト・レンズが外れた。路面には細心の注意が必要だ。二度と転倒してはならない。
 プロフェット・リバーのレストランで甘すぎるアップルパイと薄いコーヒーをすすりながら天気の回復を待った。
 雨は一向に止まない。安物のレイン・ウエアからの水で下着が濡れ気力が低下しているのが自分でもはっきり分かった。
 3時前であったがモーテルにチェックインすることにした。この辺はレストランがガソリン・スタンド、グロッサリー(小型雑貨屋)、ギフト・ショップ(土産物屋)、モーテルまで兼ねていた。
 ここのモーテルは粗悪だった。安っぽい平屋で、入り口が独立ではなく下宿屋のようだった。トイレ、シャワーも共同で部屋にはカギがなかった。
 中途半端に昼寝したのが良くなかったのか、夜中に眠れなくなって困った。ウィスキーをあおってもだめだった。こんな時は何をしてもだめなものだ。
 モーテルに泊まると1日30ドルの予算を軽く突破してしまうので困る。
1987年8月2日(日)曇りのち晴れ

 寝不足と親知らずの痛みをこらえて国道97号線を急いだ。濃霧というより雲(標高が高い)のため、行く手を阻まれた。こんな時は焦らずハンバーガーでも食べながら待つしかない。ウェートレスにロッキーのこの辺はいつも霧がでるのかと聞いてみた。彼女はブッと吹き出し、普段は夏の青空が続くと教えてくれた。
 小雨の中をひたすら走った。時折強く降ることもあった。やむこともあった。晴れてくれなどとぜいたくは言わない。雨さえ降らなければそれで良いのだ。このころの後輪は丸坊主でスリップどころかバーストさえ気にして走っていた。祈るような気持ちでシャドー1100を走らせ続けた。
 道が洪水だ!
 山手の湖から幅100mで水があふれ流れ出ている。深い所では50cm以上あり、かなりの勢いで流れていた。
 シャドー1100で通過できるのだろうか。遠回りすると100km以上のロスになる。数台の車が通過するのを観察した。
 よし行こう。エンジン回転数を高めにキープし、両足を高々と持ち上げ通過した。私の写真をとるカナダ人もいた。
 ふと荷物を見るとテントがない。洪水の向こう側で落としてきてしまったのだ。私はテントを放棄した。テントはバンクーバーで買おう。大きめのものが良いだろう。
 1時間も走ると今度は橋が流されていた。当然ものすごい渋滞になっていた。一難去ってまた一難。弱り目にたたり目。泣きっ面にハチだ。
 本来の橋のわきに角材を渡しただけの橋を急造し、交互通行させていた。臨時角材橋はドロの輪立ちが深く不安定だった。
 前日にこの辺一帯を襲った記録的竜巻はエドモントンでキャンピング・カー200台を吹き飛ばしそうだ。私は直撃されなかっただけ運が良かったのかもしれない。


 どうにか雨のカナディアン・ロッキーを抜けることができた。徐々に路面が乾いてくるのが分かった。「コンストラクション・アヘッド(前方建設中)」の標識が頻繁に現れた。こぶし大の石が時々跳ねる。今までとは別のパターンだ。土ぼこりでシャドー1100も体もドロだらけだ。

青空とヘルメット

一緒に走る相棒が出来ると心強い。
(カナダ、ブリテッシュコロンビア州 7月)

 悪戦苦闘しながら走っているとバック・ミラーに一つのヘッドライトが映った。かなり距離はある。しかし、その間隔は少しずつ確実に縮められていった。白バイか。いや違う。こんな道を走る訳がない。
 ついにヘッドライトが横に並んだ。ホンダCB750Fだ。リアシートには私同様の荷物が積んであった。彼もアラスカ帰りだと直感で分かった。
 私がガソリンスタンドに入るとCBも続いて入ってきた。お互いヘルメットを取り自己紹介をした。彼の名はデューク。20歳でシアトル大学の学生だった。
 私はテントを落したことを話し、モーテルをシェアしないかと提案した。彼は快く承諾してくれた。
 往路にも泊まったプリンス・ジョージまでの1時間の道のりは大変楽しいものだった。孤独なツアーに道連れができたということもあった。バンクーバーまでもう一息ということもあった。それにもまして月が見えたのだ。
 雲の切れ間に青空がのぞき東の空に満月が見えたのだった。思えばこの3日間、月や星はおろか太陽だって見たことはなかった。雨と寒さに耐えながら走ったカナディアン・ロッキーが脳裏によみがえった。
 月を見てこんなに感動したことはこれまでなかった。涙がこみ上げてきた。
 つらかった数日間の後に月を見たというだけで、そのつらかった日々を忘れてしまう。どんなにつらい日々が続いても、一つ良いことがあれば、すべてのつらいことを忘れることができる。
 だから人間は生きていけるのだろう。


待望の洗濯


 モーテルでいっしょにテレビ・ニュースを見たり、セブン・イレブンのサンドイッチを食べた。
 バンクーバーの友人ナオに電話を入れた。電話番号のエリア・コードが同じ604だ。もう自分の庭に帰って来たような気分がした。
 少し長めの電話だったので8ドル45セントも請求された。同じエリアとはいえ800kmも離れていることをすっかり忘れていたのだ。長い旅行の経験者なら分かるだろうが、見覚えのある所まで帰って来た時、安心感を覚えるのと同じ感覚だ。

1987年8月3日(月)霧のち晴れ

 6時半に目が覚めた。珍しく朝風呂に入った。体調はバッチリだった。デュークもOK。
プリンス・ジョージからバンクーバーまでのハイウェーは99%が舗装路だ。朝霧も晴れ、暑いくらいに気温が上がってきた。どんどんシャツを脱いでいった。給油ごとに先頭車を交代した。2台で走ると楽に距離が稼げる。
 この日はブリティッシュ・コロンビア・デーのため、休みの店が多かった。だいたい北米は休みが多い。国の休みに加え、州の休みも多い。全く羨ましい。
 バンクーバーの手前150kmはフリ−ウェー・システムとなっており思わずうれしくてスピードを上げてしまった。フリ−ウェーは都会の香りがするものだ。
 途中でデュークと別れた。聞こえないことは分かっていたが何度もグッド・バイとさよならを言った。いや、ヘルメットのなかで叫んでいたのだ。
 午後7時、ナオのアパートに着いた。16日間8,500kmの長い旅が終わった。意外と疲れを感じなかったのは、神経が高ぶっていたからだろう。
 バンクーバーに帰って最初にしたことは何だと思いますか。ある人はふろに入る、酒を飲む、スシを食べる、ひげをそると答えるかもしれない。
 私は初志貫徹の精神で洗濯をした。洗濯といっても並ではない。皮ブーツ、皮パンツ、皮ジャケット、ヘルメットそしてカバン一式だ。バスタブでジャブジャブと洗った。
 3,4日は乾かないだろう。でも、良いのだ。
 日常生活の半年分(8,500km)も走ったのだから。


二度目のバンク―バー


青空とヘルメット

何かとお世話してくれた日系移民のナオ。21世紀になっても電子メールでコミュニケーションを図っている。
(バンクーバー 7月)

 二週間ぶりにバンク―バーに帰って来た。またもナオのアパートに居候することになった。すでに合いカギを持っていたので自分のアパートのような感じだった。
 1週間滞在したが、一度も雨が降らず快適に過ごすことができた。街にも慣れていたのでのんびりできた。ただ、秋に近づきつつあったので、日が短くなったのを感じた。
 1週間の滞在中にやらなければならないことがいくつかあった。まず第一にシャドー1100の修理、整備だ。アラスカ・ツアーでは悪路に加え転倒でかなり痛んでいた。ユーコン準州の州都ホワイト・ホースのホンダ・ディーラーで修理しようとしたのだが山奥のため、在庫がなくバンク―バーまで我慢していたのだ。
 ダウンタウン(中心街)のホンダ・ディーラーで後輪を交換した。つい1ヶ月前に新車で購入したのだが後輪はすでに丸坊主だった。1ヶ月で14,000kmも走ったので無理はない。
 ヘッドライト・リム、クラッチ・レバー、ウインカー・ステ―、オイル・フィルターなどはすぐに揃った。人件費が高い北米では簡単な修理、整備は自分でやるのが常識だ。私もアパートの裏で自分で組み込んだ。
 テントも買う必要があった。テントをどこで買おうかとイエロー・ページ(職業別電話帳)で探した。キャンプ、キャンパー。キャンピングの欄を引くとキャンピング・カーの広告しかでていない。テントはスポーツの欄で探さなければならないのだ。北米ではキャンプ、フィッシング、シューティング(狩猟)は完全にスポーツの一種と考えられている。
 結局、百貨店で買うことにした。この時もスポーツ売り場へ直行しなければならない。六角形の自立式ドーム型のものを買った。かなり広く荷物も十分入る。それに中で半腰の状態で着替えをすることができる。テントは大きめの方が良いと思う。モーターサイクルに積み込んでしまえば終わりなのだ。そしてそれが家になるのだから。

 レイン・ウェアも買い換えることにした。ツアーは快適な時をより快適に過ごすのではなく、不快な時をより不快でなく過ごすことがポイントになるからだ。
 200ドルも出して、ゴア・テックスの赤のレイン・ウェアを買った。レイン・ウェアは雨以外にも寒さに対しても有効だ。
 アラスカ・ツアーの写真を現像に出した。撮った写真をすぐに見たくなるのが人情だ。氷河やハイウェーがスライド・フィルムに浮かび上がってきた。気に入ったものだけプリントした。
 髪が伸びてきたので散髪することにした。近所のカナダ人の理髪店へ行った。顔ゾリやシャンプーはせず、カットだけだった。ものすごく雑でほんの5分で終わりだった。サービスの悪い北米らしい。
 長い旅を実感する最初の行為は洗濯かツメ切りだ。そしてもう少し長くなると髪を切ることになる。
 バンク―バーで休んでいると次々に日本から手紙が届いた。アラスカへ出発する前にカナダに住所ができたことを知らせておいたのだ。それまでも数十通絵はがきや手紙を出していたがすべて一方通行だった。やっと連絡がつけられるようになった。
 ナオのアパートで手紙の返事を書くのは本当に楽しいことだった。バンク―バーを離れた後もナオに頼んで手紙を転送してもらったり、内容を読んでもらった。
 連絡中継基地ができると心強いものだ。「ソフ、キトク」の連絡が入っても1週間以内には分かることになる。もっとも、そんな連絡が渡米中になくて本当にラッキーだった。
 1987年7月17日に人気俳優・石原裕次郎氏が死亡したニュースを2週間遅れのこの時期に知ったが、太平洋を隔てた遠い国の出来事にはほとんど無関心なものだ。



 
 





EZア・メ・カ
2-3 アラスカ・ツアー(後半)
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
www.mike.co.jp info@mike.co.jp

2001.7.29 UP DATE