若き日を過ごした横浜を訪ねて
横濱たより109号
 
2002.12.11 発行

20年前と変わったもの変わらないもの

 ふらっと昔住んでいたアパートや大学を見る機会を得た。
 横浜といえば古くは山下公園、最近では日本で最も高いランドタワーを要するみなと未来地区がイメージされると思う。私が若き日を過ごしたのは旭区と呼ばれる郊外地区で海からかなり離れていた。
二俣川という町は自動車運転試験場があり原付免許も苦労したナナハン免許(実技試験を15回目にクリア)もここで取得した。今は猛烈に宅地化が進み駅も大きくなっていた。
 大学に入学した1980年は確か家賃17,000円の安アパートだった。風呂はなく、電話は8人で使うピンク電話だった。流石にそのアパートは取り壊され一軒家になっていた。大学のすぐそばにアパートを借りるのではなく私鉄で4つほど離れたところにしたのは、定期券で電車通学してみたかったという理由からだった。すぐに飽きて二輪車で通うことになったが。
 大学2年から社会人の3年間を過ごした「暁ハイツ」はまだ現存していた。当時は仲間の学生の中ではかなり立派なアパート(風呂付きで3畳、6畳の2部屋)に住んでいたと記憶していたが、今見ると時代遅れのボロアパートだ。懐かしさを感じると共に生活が贅沢にシフトしてきたことを痛感した。


安全工学という考え方

 
4年間通った横浜国立大学工学部安全工学科は保土ヶ谷区の丘の上にあった。新しい道路が建設されていたこともありすっかり迷ってしまった。なんとかたどり着いた母校は少しこぎれいになっていた。
 ロック研究会などが入っていたプレハブ小屋は取り壊され畑になっていたがバンド練習に汗を流したサークル棟は昔のままの乱雑さを残していた。当時の仲間とはここ5年間くらいメーリングリストなどで連絡が取れるようになったがこれもインターネットの良さのひとつだと思う。
 土曜日ということでほとんど人影も無くひっそりとしていた。卒業研究に勤しんだ安全工学棟にも足を踏み入れてみた。入り口の赤い赤い扉が懐かしかった。18歳ではじめて親元を離れての生活が始まったのもここだった。
 学者志望でもなかったし技術系の会社に入ったわけではなかったので研究室とはまったく接点がなかった。それでも担当教授の名札を見つけたのでドアをノックしてみた。
 果たして底には20年前のイメージとほぼ同じ男性がイスに腰掛けていた。自己紹介し、近況などを話した。最近は企業への就職が非常に難しくなってきているとの話だった。すっかり時代が変わっているようだったが大学では同じようなことをやっているという。
 入学直後、鉄道工学関係の教授が「新幹線には踏切事故がない。」と教えてくれたのに大きな感銘を受けた。「1-危険=安全」と言う考え方など、その後の生き方にも少なからず影響を受けたと思う。
 清水久二教授は2003年3月に退官されるという。研究室の書籍や資料も既に整理する段階に入っていた。教授は安全工学の考え方と人間の重要性を書いた文章を渡してくれた。
 20年前の青年だった私、40歳で日々の生活で藻掻き苦しむ私、20年後にどうあるべきかを提示してくださった教授。
 大きな時代のうねりの中でいつも新鮮で有りたいと強く思った。
 

 

Yokohama Tayori.Mike Yokohama Office All rights reserved.
918-8112 福井市下馬1-1624 横濱商館 090-3765-1097
Copyright (C) 2002-2003 www.mike.co.jp info@mike.co.jp
「横濱たより」とは?
 横濱商館建設途中の1998年10月に創刊されたインターネットを利用したオンラインマガジンです。4年間で100号を発行し、1000号を目指しています。
 写真家でありITマルティメディアプロデューサーであるマイク・ヨコハマが見たり・聞いたり・感じたモノやコトを発信しているモノです。ご意見・ご要望は、控えめにメール下さい。