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第2章 全米ツアー

第14期 ついに50番目の州

 

再び、大西洋へ

1988年4月15日(金)晴れ一時雨

青空とヘルメット

ロックンロールキング エルビス・プレスリーの銅像。
(テネシー州 4月)

 広大なテキサス州を走り切り、音楽の町メンフィス、ナッシュビル、ニューオーリンズを楽しみ、ジョージア州アトランタを過ぎると、旅が一段落したような気になった。渡米前に抱いていた刺激的なアメリカのイメージ、そのアメリカらしさを探し求めたミッド・サウスの旅も残りわずか。全米50州も残すところノース・キャロライナ州、サウス・キャロライナ州、フロリダ州のみ。
 もしかすると刺激的なアメリカに会えるかもしれないと言う淡い期待を胸にシャドー1100を大西洋目指して走らせた。
 インターステイツ85号線を下りて、アパラチヤ山脈に入って行った。とりあえずグレート・スモーキー・マウント国立公園がある。国立公園とは言っても、とてもマイナーで日本のガイドブックには載っていない。道端の看板がスキー場の広告が多くなってくる。車も少なくさみしい所だ。空一面がドス黒い雲におおわれ、風が強くなってきた。進むべきか引き返すべきか。気温は18度。マクドナルドでストロベリー・サンディ(74セント)を食べながら考える。
 ひとり旅はすべてを自分自身で決定して行けるのが利点だが、時々そのことが苦痛になることがある。結局、田舎道を引き返し、東へ進んだ。
 午後6時過ぎ、湖のほとりのKOA(キャンプ・オブ・アメリカ<全米組織の民間キャンプ場)にテントを張った。KOAはキャンプ設備、売店などが充実しているが、キャンプ代が高いのが玉にキズ。特に基本料金が2人(北米では夫婦が車でキャンプ場に来るのが一般的)になっているため、ひとり旅には不利。
 ここは税込み13ドル43セントだったが、フロリダ州の一等地だと20ドル以上する。この日の支出は、ガソリン5ドル50セント、食費8ドル97セント、リアウインカーステイツ(修理用)14ドル58セント。しめて、42ドル48セント。一日30ドルの生活は易しくない。


最終目的地フロリダ州

1988年4月16日(土)曇りのち晴れ

 テントの中で9時まで寝ていたが、目覚めがよくない。気温が14度と寒いのも原因のひとつ。ひどく寒がりの私はセーターを着込んだ。
 南へ走ると、南北戦争発端の港町・チャールストン(サウスキャロライナ州)に出る。
 河口の三角州に発達した小ぢんまりした美しい街。アメリカ人の大好きな歴史にあふれた街で、モントリオールの町並みと似ている。治安も良さそうだったので、荷物はシャドー1100に積み込んだまま、市内を歩いて観光した。大西洋を見るのは7ヶ月ぶり。1861年から65年にかけてアメリカで起こった内乱を日本では南北戦争と呼ぶが、アメリカでは「ザ・シビル・ウオー」(市民戦争)と呼ばれている。北軍と南軍が戦ったので南北戦争と訳したのかもしれないが、誤訳のような気がする。
 インターステイツ95号線をひたすら南下し、ジョージア州ブランクスウィックのYH(ユース・ホステル)にチェックインした。町はずれにあるこのYHはとてもユニークだった。まず建物が木造の六角形をした山小屋風。中に入ると結構広く、二段ベッドの上に屋根裏ベッドもある。森の中にあるため自然にあふれているが、数種のペットを飼っていた。犬や猫は驚かないが、ニワトリ、クジャク、七面鳥が放し飼いになっているのには少々驚いた。ニワトリなどはすっかり人になつき、だっこしても逃げない。
 珍しく南米ブラジルからの旅行者も泊まっていたが、その中にホンダと名乗る日系人がひとり交じっていた。見た目は田舎の日本人のようだが、まったく日本語を話せない。さらに英語もほとんどしゃべれない。旅には語学力など無関係なのだとつくづく感じた。

 4月17日(日)晴れ

青空とヘルメット

ついに50番目の州に足を踏み入れた。はしゃいで記念撮影しているが、ほとんど感動などしていなかった。
(フロリダ州 4月)

 フロリダに程近いとはいえ、朝の気温は15度と寒い。
 インターステイツ95号線を避け、国道17号線を南へ走ると間も無くジョージア州とフロリダ州を分ける川に到着した。
 ガソリンを満タンにし、記念撮影用のビールを買おうとコンビニエンスストアのレジに缶ビールを出したが売ってくれない。未成年に見られたのかと思ったがそうではなかった。州法で日曜日はアルコール類は販売できないと言う。川を越えたフロリダ州では2時以降なら売ってくれると言う。飲むのではなく、記念撮影に使うのだと言っても無駄だった。自由の国アメリカは、日本以上に規制の厳しい一面もある。
 橋を渡り、フロリダのパネルの前で記念撮影したが、何だか盛り上がらない。何もビールを買えなかったからではない。全米50州すべてに足を踏み入れても、想像していたアメリカを見つけることができなかったためだ。
 60,000km近く走ってきたのに、大して感動なんてなかった。これが私が夢にまで見た全米ツアーだったのか。
 あえてインターステイツを走らず、一般道でフロリダ半島西側へ出て、セント・ピーターズバーグと言う街まで走った。一般道だとスピードが80〜90km/h以内で安定して走れるため燃費が伸びる。特にフロリダのように低地だと空気が濃いので一層有利だ。4ストローク2気筒とはいえ26.4km/lの燃費は荷物を満載した1100ccにしては上出来だ。
 一口にフロリダと言っても南北に800kmもあるので南端のキーウエストとジョージア州境とは季候が少し違う。ほぼ中間のセント・ピーターズバーグでもそれ程暑いとは感じない。
 ただ、山が見えない風景(フロリダは全体が低地)、4月だというのに目に鮮やかな新緑、どの街にも漂うリゾート感覚がフロリダを感じさせた。

 セント・ピーターズバーグは街自体は大きいが、全然活気がない。日曜日ということもあるかもしれないが、人通りがほとんどない。ガソリンスタンドやコンビニエンスストアも少ない。
 YH(ユース・ホステル)を兼ねているデトロイト・ホテルを探していると、いきなり白バイに捕まった。ポリスは、車と車の間をすり抜けて走ったのが法律違反だと言う。
 私はとっさに、ずぶの日本人を演じることにした。ポリスの英語がわからないフリをし、カリフォルニア州発行のドライバーズ・ライセンスではなく、神奈川県公安委員会発行の国際免許を出した。困ったポリスは無線で日本語のできる職員はいないかと本部へ問い合わせている。そのやりとりも理解できたが、何もわからないフリをし続けた。
 この方法がいつも有効かどうかは疑問だが、私は無罪放免になった。
 ようやく見つけ出したデトロイト・ホテルは、中庭付きの立派なリゾートホテルだった。エレベーターはややくたびれていたが、かえって趣がある。広々とした部屋にはバスタブもあり、南国らしく、大きなクーラーも付いていた。それでいて一泊たったの10ドル(プラス税金80セント)。
 このホテルでは、毎週日曜日の夜、中庭でレゲエ・コンサートが開かれていた。宿泊客は入場無料。バーラウンジも特設され、2〜3ドルでビールやカクテルが楽しめる。ステージの前では、多くの若者が踊りまくっていた。
 白人のダンスを見ているとおもしろいことに気づいた。まったくリズム感が悪いのだ。レゲエ特有のビートにもかかわらず、8ビートのノリで踊っている。見ていてこっけいだ。それでも、本人は大いに楽しんでいるようなので、遊び方がうまいとでも言うしかない。

 4月18日(月)快晴

 連泊することにしていたので一日のんびりできる。デトロイト・ホテルは、手ごろな外観パースのポストカードを無料で用意していたので、日本、アメリカ国内、カナダ、メキシコの友人達に14通も書いた。貧乏旅行者にとって、1枚30セント程度のポストカードでも数がまとまると結構な出費となる。切手代は、アメリカとカナダ15セント、メキシコ21セント、日本36セント。封書だと、アメリカとカナダ25セント、日本45セント。日本の航空便料金は最近安くなったが、まだ割高だ。
 セント・ピーターズバーグは、あまりに刺激がない街なので、澄んだ海水で有名なクリアウォーターへ行くことにした。Tシャツにコットンパンツの軽装でシャドー1100にまたがった。フロリダ州は暑い所だが、ノーヘルが許されていないのでヘルメットをかぶらなければならない。州全体がリゾート地なのに変な感じだ。全米50州のうち、何らかの形でノーヘルが許されている州が25州あるが、そのほとんどが西部(ミシシッピ川より西)にある。
 クリアウォーターは、びっくりする程水のきれいな所ではないが、あまりに観光地化されているのに驚いた。ホテルが建ち並び、駐車場が整備され、海水客用の飲食店が軒を連ねる。
 浜辺を群れ飛ぶカモメはすっかり人に慣れ、かなり近くまで寄ってくる。フライドポテトを食べていると物欲しそうに見ているヤツまでいる。少し投げてやると一斉に食べつくしてしまう。投げるマネだけしても、その方向へ集まってくる。必死にフライドポテトを探すがそれがマネだけだとわかると、オレはだまされちゃいないぜと言わんばかりに、なに食わぬ顔で歩き始める。まったく、間抜けなかわいい連中だ。


米本土最南端キー・ウエスト


1988年4月19日(火)快晴

 いよいよキー・ウエスト目指して出発だ。ホテルを出る前に、たまった地図を日本に送った。AAA(アメリカ自動車連盟)へ行くと全米マップから地域、州、都市、ダウンタウン明細まで各種のロードマップを用意してくれている。各地にあるツーリスト・インフォメーション・センターでも地図が手に入る。長く旅を続けていると、地図だけでも相当な量になる。地図は旅行のよいお土産にもなるし、日本国内では入手困難なものだ。約2kgの船便料金は7ドル60セントだった。
 フロリダ半島西側を南下。国道41号線で半島を横断し、キー・ウエストにつながる国道1号線に出る。フロリダには多くの橋があるが、そのいくつかは有料になっている。有料と言っても50セントから1ドル程度なので目くじらを立てるほどではないが、ほとんど無料のアメリカでは損をした気分になる。橋以外でも有料のフリーウェー(無料という意味ではなく、信号や交差点がないという意味)が多い。
 メキシコ湾から吹く風があまりに強くて走りづらい。ジョージアあたりの竜巻の影響かもしれない。それに猛烈に暑い。気温は30度を超える程度だが、湿度が高く蒸し暑い。日本の真夏のよう。Tシャツのみで走っても暑い。
 アメリカ本土から250km離れたキー・ウエストまでは一本の道路でつながっている。そのほとんどは片側一車線の対面通行なので走りづらい。特にリタイアした老夫婦の巨大なキャンピングカーがノロノロ走っているので追い越そうにも追い越せない。時折、車線が広くなったときに一気に追い越し、先を急いだ。
 6時過ぎ、キー・ウエストに到着。有名なセブン・マイルス・ブリッジを通ったはずだが、どの橋がそれだったのかわからない。ポストカードになっているブリッジの航空写真は、とてつもなく美しいが、走っていると別になんでもない。

 キー・ウエストは小さな島で歩いてでも回れそうだ。道も狭く、ストリート表示板がなく、電柱に小さく書いてあるだけなのでYH(ユース・ホステル)が見つけにくい。メキシコの田舎町を走っているようだ。天気が悪くなってきており、あまり感動的ではない。
 YHでチェックインしようとしてちょっとしたトラブルになった。私の持っていた会員証は渡米前の1987年に作成したものですでに期限が切れていると言うのだ。1年も旅をしているのでしょうがないと言っても聞き入れてくれない。担当者はイギリスからの流れ者で2年も前から旅をしていると言う。シブシブ会員証12ドル、2泊分20ドル、キーデポジット5ドルを支払った。
 ジョギング・シューズを含め、すべてを洗濯し、寝ようとして、またトラブルになった。私のベッドがないのだ。モーテルを改造したYHは、二段ベッドが3つ程度入れてあるが、すべて満員になっていた。深夜1時過ぎだというのに困ったものだ。原因は、チェック・アウトしたホステラーが不法に居すわっていたことだ。彼は夜中に追い出されて出て行った。だれが悪いとかはどうでもよいが、夜中に眠れないのは困りもの。キー・ウエストの印象がますます悪くなった。おまけに腹が猛烈に減っていたことも、拍車をかけた。
 キー・ウエストでは、もうひとつ不満な点があった。水道水が真水ではなく、薄い海水だということだ。シャワーを浴びても体がスキッとしないし、シャドー1100を洗車したら、塩が浮いてきてしまった。真水が出るのはキッチンの水道だけだという。
 離島並みの所なので物価が2〜4割高いことはしょうがないだろう。

 4月20日(水)晴れ

 とにかく暑い。暑くて何もしたくない。夜間はクーラーを入れてくれるが、昼間は切ってしまう。とても部屋にいられず、中庭の日陰でボーッとしているしかない。観光シーズンが12月〜3月の冬季だというのもうなずける。
 世界的観光地だけに、宿泊客は40〜50人はいるが、春休みは終わっているので、ちょっと変わった連中が多い。特に、数人の日本人は島に住みつき、さながら日本人村の雰囲気があった。国際浪人のたまり場となっている。十代の留学生くずれ、婚期をのがした30がらみの女性、長髪サングラスのヒッピー、…。午前中は2時間ほどYHのそうじを手伝い、夕方はレストランの皿洗いをする。実働5〜6時間で十分食っていけるだけでなく、お金を使わないので貯金がたまっていく。彼らに共通しているのは、のんびりした性格と人恋しさ。私にもっと滞在していくようにしきりに勧める。日記にこう書かれている。

「さすがに地の果てだけあって、多くの日本人が居付いている。私も引きづり込まれそうだ。
 ここに長くいてはいけない」。

 薄手のランニングシャツと短パンで一日中過ごす。近くのビーチに泳ぎに行った。サメやエイがいると聞かされていたのであまり沖へは行かなかったが、とにかく海水が温かい。どんなに暑い日でも、海へ入れば冷たく感じるものだが、北回帰線に程無いこの島では海水さえ温められていた。
 ダイビングのライセンスを取るために滞在していたカジタニという日本人と話していて、ある偶然に気づいた。私は、人口が150分の1しかいない福井県の生まれだが、真っ黒に日焼けした彼も福井県生まれだと言う。さらに、よく話してみると、小学校も同じで、実家は歩いて5、6分の所であることがわかった。彼は、アラスカへも行った経験があり、話がはずんだ。
 横浜に7年住んでいても、めったに同県人と会うことがなかっただけに、旅の偶然に驚いた。

 4月21日(木)晴れ

 前日よりもややカラッとしている。たった2泊3日の短い滞在だったが、一緒に食事したり、ダウンタウンを歩いた仲間達にあいさつもせずに、YH(ユース・ホステル)を後にした。みんな気の良い人ばかりなので、引き止められたら断る勇気がない。
 いくつか印象の悪い点があったものの、客観的に見てキー・ウエストは居心地の良い所だ。治安も悪くないし、のんびりしている。午前中だけYHの手伝いをすれば、その日の宿泊費がタダになるので、金銭的にも負担が少ない。キッチンで自炊すれば、一日数ドルでやっていける。昼間はビーチでのんびり甲羅干しするか、隣の島までツーリングするのも悪くない。
 しかし、一度そんな生活に入ってしまったら、なかなか抜け出すことは困難だ。やはり、さよならも言わずにキー・ウエストを離れたのは正解だったのかもしれない。少なくとも、私が探し求めていた刺激的なアメリカ生活は、それではない。
 フロリダから両親あてに書いた手紙(4月18日セント・ピーターズバーグ郵便局消印4月25日福井の実家着)の一部にこう書いてある。


 「今日の旅行(ミッド・サウスの旅)は運が良いことに一度もカッパを使っていません。何度か雨が降ったのですが夜であったり、小雨でした。このまま無事LAに帰り着きたいです。
 昨年(1987年)6月29日にハワイで入国審査を済ませ、30日にモーターサイクルを購入し、長い長い道程でした。すでに57,000km走りました。少し疲れているので、世界のリゾート地フロリダではゆっくり休みたいと思います。
 フロリダからは、ほとんど観光しないでまっすぐLAに帰るつもりです。5月下旬にはLAを離れることになるでしょう。帰りにソウル(韓国)に寄って、ソウル・オリンピックの下見をするつもりです」。

 

 いよいよ、帰国を目指して4度目の大陸横断に旅立つ。



 
 





EZア・メ・カ
2-14 ついに50番目の州
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE