第2章 全米ツアー第13期 ミッド・サウスの旅3度目の大陸横断 1987年6月に渡米したのだから、もう9ヶ月。私のモーターサイクルひとり旅の終わりが近づいてきた。全米50州のうち、残りは南部の12州。 ツーソン1988年3月26日(土)晴れ ホワイトサンズ国立公園1988年3月28日(月)快晴
7時にすっきり目覚め、シャワーを浴びて、東へ向かう。インターステイツ10号線は最高に走りやすく、ダコタ(アメリカ北部の大平原あたりの州)を思い出す。120〜130km/hで巡行したが、燃費は25km/lを超え、絶好調。
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同室のドイツ人を郊外のレンタカー屋まで乗せて行く。ドイツ人はケチだと思っていたが、お礼だと言って朝食代を含め5ドルもくれた。マクドナルドで朝食を取った。
気温は15度で寒く感じる。途中、貨物列車の通過に出くわし、10分以上待たされる。一台の列車でこれだけ待たされるのだ。さすがアメリカ、スケールが違う。ただし、踏切で待たされたのは1年間で数回のみ。
エルパソからカールスバッド国立公園へ向かう途中でボーダー・パトロール(テキサス州にあった)に停車を命じられた。
係員といろいろしゃべっていると、ひとり旅は怖いから銃は持っているかと聞いてくる。
私は外国人なので銃の所持は違法じゃないですかと答えると、それもそうだなと軽く受け流された。やはり文化の違いだろう。
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世界最大の鍾乳洞カールスバッドは、やや高原にあるだけに寒い。メキシコツアー前にゴアテックスの厚手のグローブを買っておいて本当に良かった。アメリカ南部といえども防寒対策は必要だ。暑かったらぬげば良いが、寒いのはいかんともしがたい。
鍾乳洞は確かに広いが、美しさでは山口県の秋吉洞の方がはるかに上だ。おまけに、帰りのエレベーターがメチャこみで30分以上待たされてしまった。
どこかのモーテルにでも入ろうと闇雲に南下したが、ニューメキシコ州とテキサス州のボーダーあたりでこれと言った町すらない。
日が傾き、どんどん寒くなってくる。対向一車線の田舎道を1台のモーターサイクルで走るのは、なんとも心細い。聞こえてくるのは、わずかなエンジン音と巨大な風切り音。どうもヘッドライトが暗い。それもそのはず、バルブが切れているのだ。
ボーダーに1軒の飲み屋兼ガソリンスタンドを見つけた。近くのモーテルを教えてもらおうと中へ入った。レジにはだれもいないが、3、4人のいかつい男たちが丸テーブルでビールを飲んでいた。やおら、そのひとりがレジに回り、「いらっしゃいませ」と型通りの文句を言った。
モーテルはあと80km先だと言うが、すでに走る気力はない。飲み屋の裏でテントを張らしてくれと頼むと、別に構わないが、あと数km先に、キャンプ向きの湖があることを教えてくれた。喜び勇んで、砂利の脇道をはねるようにシャドー1100を走らせた。時折、何かが私の前を横切る。野ウサギのようだ。毛の色は白ではなく灰色。
湖に着くと、2台のモーターホームがすでにキャンプを楽しんでいた。疲れた体にムチ打ってテントを立てる。暗い上に、半年ぶりのテントだけに異常に手間どった。隣は黒人の一家が魚釣りを楽しみに来ていた。とても親切でコーヒーや朝食をごちそうしてくれた。
寒さと川から聞こえてくる異音と風切りのため、熟睡できない。北部を回った時よりも厚手のシュラフだが、寒い物は寒い。
1988年3月30日(水)晴れ
気温10度とテント生活には寒い朝だが、日中はドンドン気温が上がった。スペアのヘッドライトバルブを交換するのはほんの数分で終了。町でH4のハロゲンバルブを探したが、手に入ったのは3日後のことで、韓国製だが13ドル87セントもした。それでも、最小限のスペアパーツ(バルブ各種、レバー)は必要だ。
テキサス州の最奥地に位置する広大なビックベン国立公園は山岳風景が売り物だ。ほとんど日本人観光客が来るところではない。それでも、公園内のキャンプ場は満員だと言う。
入るのもやめて、近くの民営のキャンプ場をチェックイン。キャンプ代が3ドルと安かったこともあり、本日の支出はガソリン6ドル、食費9ドル、アルコール飲料2ドルと、20ドル以内でおさまった。
3月31日(木)快晴
朝、ソーセージをいため、ゆっくりとティーバックの日本茶を飲む。こんなにゆっくりお茶を飲むことなんて日本であっただろうか。
地図には載っていないが、メキシコ国境までいける道があると言うので、行ってみた。国境は細い川で橋がかかっており、メキシコ側に建物が建っている。
橋を渡ると、係官が面倒臭そうに出てきた。係官と言っても、制服も着ておらず、ノーネクタイ。田舎のおっさんが委託されてやっている感じ。それでも、おっさんは下手な英語で国籍などを聞いてくる。結局、パスポートも見ずに通してくれた。とはいっても陸の孤島でどこへも行けない。たった1時間のメキシコ観光。
田舎道を東へ走って、サンアントニオを目指したが、途中にあきらめて、国境の町・デルリオでストップ。小さな町だが、テキサス90号線の両側は大小のホテルやモーテルが建ち並ぶアメリカ風宿場町。当然、値段も安く、20ドル28セント(税込み)でバスタブ付のシングルルームが手に入った。
夜7時からテレビで見たスピルバーグ作の「ヤング・シャーロック・ホームズ」は、手に汗握るおもしろさだった。テレビはモーテルの楽しみのひとつでもある。
1988年4月1日(金)晴れ
デルリオからサンアントニオまでは、ほんの300km。州道90号線をノーヘルで快調に飛ばしたら、昼過ぎには着いてしまった。
メキシコ北西部からアリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州西部と荒野を走り抜けてきただけに、都市の街並みがとても新鮮に感じるとともに安堵感を覚える。
サンアントニオは、ものすごく湿度が高く、過ごしにくい。夏はもっと蒸し暑いという。街並みは歴史があり美しく、運河をめぐるボートツアー(1ドル75セント)に乗るのも楽しい。
そして、サンアントニオの中心には、有名なアラモの砦がある。アラモはアメリカ人にとって特別な意味がある古戦場でもある。アメリカ200年の歴史の中で、唯一、外国人(メキシコ人)に負けた所なのだ。コラムニスト、ボブ・グリーンの傑作集「チーズ・バーガー」は、アラモの話から始まる。彼の著作はアメリカを正しく理解しようとする人にとって、最高のものだと信じている。
郊外のユースホステルは、落ち着いて居心地が良い。ゆっくり休もうと思っていたが、金曜の夜は、ダウンタウンのバーでライブがあることがわかった。1本きりのネクタイを締めてシャドー1100にまたがった。
走っていると、イスパニック系のグラマーな女性が道に飛び出してきた。時間はすでに10時。アパートまで乗せて行ってくれと言う。
少し酔っているようだが、別にあやしい人物ではないので、乗せてやることにした。
数km先のアパートの前で降ろすと、お礼にキスをしてくれたが
「デュ・ユ・リブ・アロン?」(意訳、上がってっていい?)
「ノー・ウィッズ・マイ・ブラザー・アンド・ア・ボーイフレンド」(だめ、だめよ)
とスペイン語なまりで言われて別れた。一体彼女は何だったのだろうか。
気を取り直し、バーでライブを楽しんだ。下手くそなバンドで古いロックン・ロール・ナンバーのコピーをしている。それでも、客は楽しんでいたのだから、それでいいか。
1988年4月2日(土)晴れ
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テキサス州最大のヒューストンまで、300kmの移動。。このくらいの距離だと観光する時間が十分取れる。
人口200万人の大都市で市街地も広く、フリーウェーも込んでいるが、最大の見所は郊外のナサ(米航空宇宙局)にある。
広大な駐車場は良く整備され、世界中の観光客を待ち受けている。無造作に横たえられている巨大なロケットが目を引く。
1969年7月に人類を月に立たさせた最強の国、アメリカ。しかし80年代後半は、経済的にも軍事的にも行き詰まり、地球の周りを回るだけのスペース・シャトルでさえ爆発してしまう。
数々の歴史的展示物はどれも色あせ、過去の遺物のようにしか見えない。遠い昔の夢物語。悲しい気持ちに落ち込みながら、研究所を後にした。
宿泊はこの日もユース・ホステル。キャンプするより、精神的にも肉体的にも楽だし、多くの若者と話をするのも有意義だ。1泊8ドル75セントは、民営のキャンプ場と比べると安いくらい。
しかし、ここのユースは気にくわない野郎が多かった。妙に態度がでかい。50がらみのチェコスロバキア人のおっさんが、一生懸命に英語の手紙を書こうとしているのを周りで見ながら笑っているのだ。おっさんが口述するのを代筆してあげているのだが、チャチャを入れたり、からかったりする。
彼らはオーストラリア青年だった。田舎臭いとは言え、英語がしゃべれると思って、なんだその態度は。偏見だと言われるかもしれないが、私は、カナダ人、オーストラリア人が嫌いだ。自国では何も(工業製品)作れないくせに、天然資源に頼り、英語がしゃべれると思って、デカイ顔するんじゃねえ。その点、ドイツ人は腰が低くて好きだ。
夜は、夜景のきれいな10階のレストランでジャズを楽しんだ。白人の4人バンドだったが、メチャクチャうまい。ビール片手に聞きほれていた。
すると、生意気なウエートレスが1時間にひとつは注文しなければいけないと言いに来る。全く気分の悪い一日だ。
1988年4月3日(日)晴れ
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北上してダラスを目指す。テキサス州は荒野のイメージだが、東部のこの辺は針葉樹林が生い茂り美しい。そのためか、左手をハチに刺されてしまった。アメリカ大陸でハチに刺されたのは、これで3度目。すっかり慣れた。
昼過ぎ、ダラスに入ったがあまりの静けさに驚く。ビジネスタウンだけに、日曜日はゴーストタウンのようだ。ケネディ暗殺現場見物もそこそこに北上することにした。ダラスを過ぎると都市らしいものはしばらく、お目にかかれなくなる。ド田舎のキャンプ生活の始まりだ。
州境を越え、オクラホマ州に入った所でキャンプイン。テントを立てていると、人の良さそうなおじさんが手伝ってくれた。彼はすでに66歳だったが、現役のライダーだった。
第一線から引退し、キャンプ場にトレーラーとHondaゴールドウイング1200を持ち込み、のんびりと暮らしていた。モーターサイクルでやってきた東洋人は、格好の暇つぶしの相手だったのだろう。さらに、彼は日本人と話をするのは生まれて初めてだと言った。
ふと、彼の時計を見ると私の時計より1時間進んでいる。南北に600km移動しただけなので時差は関係ないはずだが、この日(4月の第1日曜日)から夏時間に切り替わったのだ。アメリカは時差に加えて夏時間が4月から10月まで採用されている。(アリゾナ州を除く)ので、日本人の私にはややこし過ぎる。そう言えば、10月の変更時にも、1時間待ちぼうけを食った。もっとも、気ままなモーターサイクルひとり旅には、社会的時間制度なんて無縁に等しい。
4月4日(月)快晴
昨夜のおじさんに朝食に招かれ、キャンピングカーの中でトーストや菓子をいただいた。モーターサイクル・マガジンを見ながら、話に花が咲く。夏のアラスカ・ツアーがアメリカ人ライダーの最後のビッグツアーらしい。
森林地帯の田舎道をひた走り、アルカンソー州のホットスプリング国立公園内でキャンプを張った。名前は温泉だが、露天ぶろなどひとつもない。それどころか、シャワーもない。ゆっくり温泉にでも入りたくなった。
1988年4月5日(火)曇り
気温は20度そこそこと決して暑くないのに湿度が高く、背中に汗をかくほどだ。アルカンソー州からテネシー州に入るとすぐに、プレスリーで有名なメンフィスたどり着く。
ダウンタウンの公園では、ブルースマンが演奏し、通りのバーからはピアノの音が聞こえてくる。雰囲気のある町だ。
昼過ぎにユース・ホステルに入り、たまった衣服を洗濯。洗濯機は無料とラッキー。夕方、プレスリーハウスを見に出かけたが、すでに閉館。特別、彼のファンでもないし、翌日見学に行こうとは思わなかったが、庭に置かれた二機の自家用飛行機にはど肝を抜かれた。
4月6日(水)晴れ
テネシー州には、もうひとつ大きな町がある。カントリー・ミュージックのメッカ、ナッシュビルだ。メンフィスから300km強と手ごろな距離にある。ただ、寒冷前線を追いかけて走ったようで、気温は15度から上がらず、小雨も落ちてきた。一枚皮のグローブでは、寒くてしんどい。アメリカ北部の旅を思い出す。
この町には、ユース・ホステルやゲスト・ハウスなどの安い宿がないため、一番安いモーテル(24ドル税別)にチェック・インした。音楽の町らしくギター型の室内プール付きのホテルで、部屋の壁一面は鏡張り。バスタブが立派な所に宿泊すると長めの風呂に入る。それどころか、朝もシャワーを浴びてから出発する。キャンプ生活が続くと、満足にふろに入れなくなるからだ。
有名なミュージック・ロウ(音楽スタジオ街)へ出かけた。アメリカ国内のビッグスター=カントリーシンガーの博物館やお土産物屋が軒を連ねていたが、日本人の私には全くなじみがなく、何の面白さもなかった。
4月7日(木)快晴
すごく天気が良いが寒い。南部に近いとは言え、大陸のど真ん中だけに、冷え込むとライダーにはつらい。
テネシー州は、メンフィス、ナッシュビルの他に見逃せない所がある。ナッシュビルから南へ2時間程走った田舎町にあるジャック・ダニエル本社だ。
全米ツアー中、バドワイザーのアンホイザー・ブッシュ社(セントルイス市)をはじめ、酒工場はいくつか見学してきた。見学よりも、その後の試飲のほうがメインだが。
ジャック・ダニエル・ツアーは、映画による概要の説明から始まる。オーバーオールを着込んだおじさんの案内にしたがって、各工程を見て回る。おじさんが何度となく繰り返し説明したのは、ジャック・ダニエルがバーボン・ウイスキーではなく、テネシー・ウイスキーであると言うこと。
ご存知のようにバーボン・ウイスキーは、ケンタッキー州のバーボン・カウンティ内で作られたもののみを指す。原材料や製法が微妙に違う。スコッチやシャンペンのように一般化しているため、間違った呼び方をされるのが悲しい。
案内のおじさんは、やけに元気とやる気がなく、ダラダラと決まり文句を並べるだけ。おまけに、室内から出るとすぐに煙草に火を付けプカプカふかす。
さらに、見学後の試飲は、ジャック・ダニエルではなく、レモネード。ガイドブックに書いてあった絵はがきのサービスもなく、はい、さようならという感じ。こんなど田舎まで見に来たのになんてことだ。
そんな気分を吹き飛ばしてくれたのは、近くにあったペプシ・パーラー。店内はペプシのノベリティグッズに埋めつくされ、売り物は1ドルのホットドッグと50セントのペプシだけ。マスターは一心不乱に古いモーターサイクルにみがきをかけている。道楽でやっているとしか考えられない。それでも、夏のシーズン中には日本人観光客がわんさか来るらしい。
アメリカは、コカ・コーラの方がシェアが上だが、ペプシ・コーラの方に魅力を感じるようになった。
1988年4月8日(金)快晴
薄ら寒い森の中のキャンプ場で目覚めた。キャンプ場の朝はいつも寒い。夏だろうが、天気がよかろうが、朝はグッと冷え込む。自然の中で寝起きすると、都市生活では忘れていた多くのことを思い出す。
ここは、アラバマ州中央の小さなキャンプ場。キャンプ場は全米各地に点在しているので長期の旅行をする人は、キャンプ生活するとよいだろう。見知らぬ人とのふれあいや、自分自身のこと、祖国のこと、歴史のことなどを考える時間を十二分に与えてくれる。
キャンプ生活に必要なものは、まずテントとシュラフ。少々、かさばっても大きめのテントと暖かいシュラフを用意すべきだ。広大なキャンプ場で身動きもとれないようなテントでは気が滅入る。中で着替えのできるスペースはほしい。自炊用具をそろえるとさらに楽しさが広がる。いずれにしても、モーターサイクルに衣・食・住のすべてを積んで旅行する楽しさは格別のものだ。
目指すは、ニューオリンズ。ミシシッピ州を一気に走り抜け、3時にはダウンタウンに着いた。2週間ほど、1泊ずつの移動が続いたため、連泊することにした。ユース・ホステルで3泊分27ドルと貸シーツ代1ドル、それにキーデポジット(キー返却時に返してくれる)5ドルを支払った。
早速、洗濯にかかる。虫で汚れた皮ジャンや皮パンツ、ライダーブーツも水でジャブジャブ洗った。皮製品を水洗いするのはどうかと言う人もいるが、ツーリングでの汚れは水でゴシゴシ洗うのが一番。型くずれしないように乾かし、オイルをすりこんでやればOK。連泊中には、オイル交換をはじめ、シャドー1100のメンテナンスもしなければならない。連泊すると移動中には忘れかけていた日常の香りが漂ってくる。
ニューオーリンズと言えば、バーボンストリート。一段落するとYH(ユース・ホステル)で知り合ったドイツ人達と街に繰り出した。
バーボンストリートは思ったより狭く、歩行者天国になっている。飲食店やお土産物屋は観光客用で、日本の夜店のような感じ。ほんの数ブロック四方だがものすごく観光地化されている。
興味本位に入った女子プロレスを見せるバーは、完全なショーで、着ている服をどんどん脱がせるストリップの一種だった。ビールは一杯3ドル75セントと高い上に、無理やりチップを払わせる。なんやかんやでYHに帰ったのは深夜2時。あしたはゆっくり過ごしたい。
4月9日(土)晴れ一時曇り
午前中は、シャドー1100のオイル交換。フィルターも交換しようと買っておいたのだが、フィルターレンチをLA(ロサンゼルス)のアパートに置き忘れてきたらしい。近くのショップで親切なアメリカ人がレンチを買ってきてくれたが、私が逆に回してしまったため、レンチがゆがみ、フィルターはとれなくなった。ここ数日、道に迷ったり細かいミスが多いので慎重に行動したい。
数日前、メンフィスで出会った国際浪人のマツオさんがYHに現れた。長く旅をしていると、ぱったり出食わすことがある。
二人で街に繰り出すと偶然ミシシッピ川の花火大会を見ることができた。花火はひとつひとつは日本のものと比べていまいちインパクトがないが、音楽との組み合わせがすごい。観客の反応はカナダ同様「アー」か「ウー」しかなく画一的。日本人の方が個性的だ。
帰りにミスター・スシという名のすし屋を見つけた。LA以来、3週間も日本食を食べていない。どうしても素通りをすることができず飛び込んだ。ウエイトレスのおばちゃんに、LAですし屋にいたんですよと言うと、いきなりオーナーのすし職人が「働きませんか」と言い出した。フロリダへの旅の途中だと言うと、帰りに来てくださいとまで言う。
全米がすしブームだが、地方では職人が不足しているらしい。すしを握った経験など無関係で日本人ならだれでもよい。いや、アジア人ならOKかもしれない。
あの時、すし職人のさそいに乗っていたらルイジアナ州で永住権を取得し、アメリカに住んでいたかもしれない。しかし、私の目標は移住ではなく、あくまでも全米ツアーだ。
4月10日(日)曇りのち晴れ
ニューオーリンズに来てすでに3日目。そろそろツアーの計画でも練り直す時期だ。連日、深夜まで遊んでいたのでのんびりYH(ユース・ホステル)で過ごすのがよいかもしれない。
お昼ごろ、魅力的なドイツ人女性がチェックインしてきた。私はダウンタウンを案内すると彼女を誘った。金髪のウーリッカと有名な路面電車(映画・欲望という名の電車)でダウンタウンへ出た。
街はフレンチ・クォーターの最終日でにぎわっていた。街中がお祭り騒ぎ。北米では、公衆の面前(公園やビーチ、道路)で酒を飲むことを禁じているが、この街だけは例外だった。
ミシシッピ川の対岸へは無料の船が運航しているが、対岸はほとんど人がいない。あのお祭り騒ぎは、ジャクソンスクエアとバーボンストリートあたりだけなのだ。
ウーリッカはとてもスリムな女性だったが、私同様、アメリカ人は太りすぎだと言う意見だった。ドイツ人はビール腹の人が多いのかと聞くと、あれは極少数だと答えた。反対に、日本人はものすごく太っているのだろうと聞いてくる。よく話してみると、相撲取りの話をしているのだった。
6、7時間も歩いたので足が痛い。10時には寝てしまった。
4月11日(月)晴れのち雨
出発を一日延ばして、のんびりすることにした。シャドー1100にも乗らず、カメラもいじらない一日というのはなんとも変な気分だ。一年の全米ツアー中で数日しかなかった。
外は風が強く、ものすごく寒い。南部と言えども、冷えることがあるので要注意だ。翌朝には、ジョージア州アトランタ目指してシャドー1100を走らせていることだろう。
4月12日(火)晴れ
少し遠回りして、レイク・ポンチォアートレイン・クルーズウエーを渡ってから北上することにした。この道は円形の湖を南北に走る橋で全長45kmもある。瀬戸大橋が世界最大の橋だと思っている人も多いが、ケタ違いに長い橋もある。ただし、こちらはつり橋ではなく、湖面から数mの高さの橋で、途中数ヵ所だけ船舶が通過できるように高くなっている。湖底が浅いからできる構造だ。
橋に入って数分すると、前後とも陸地がまったく見えなくなる。正直言って気持ち悪く、薄ら寒く感じる。湖に吸い込まれそうな気がする。時速100kmで走っても10分以上、この状態が続く。フロリダのセブン・マイルズ・ブリッジ程有名ではないが、ニューオーリンズへ行くライダーは一度渡ってみるとよいだろう。さらに驚くのは通行料がたった1ドルだと言うこと。車社会が何であるかということを考えさせられる。
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ランチは、チャイニーズ・レストランで取る。とても愛想のよい中国系のおばちゃん。食事が楽しくなる。アメリカ北部のチャイニーズ・レストランはコンビネーション・ランチ(一つの皿に3種類ほどの料理がのっている)が多いが、南部はバフェスタイル(セルフサービスで8〜10種の料理を取る)が多い。料金は、バフェの方がやや高め(とは言っても5ドルまで)だが、好きなだけ食べられる。味付けは全米とも甘ったるいのが特徴。同じ料理でも、横浜チャイナタウンとでは味付けが違う。どうしても、地域性がでてくるものだ。
600km走り、アラバマ州の田舎町トロイのYH(ユース・ホステル)にチェックイン。おばあさん1人でやっているホームホステルで2階の奥がホステラー用に改造され、キッチンやシャワーは共同。旅行好きで、本当に人柄の良い人で温かく迎えてくれた。
町で1人だけ日本人留学生がきているとローカル新聞を見せてくれた。彼はアメリカと言えばNYやLAの大都会をイメージしていたが、大いなる田舎であると書いていた。
このYHには、月に数人しかホステラーは来ないと言う。
1988年4月13日(水)快晴
午後3時、ジョージア州アトランタに到着した。渡米前から是非とも行ってみたい都市だった。
アトランタには、CNN(ケーブル・ニュース・ネットワーク)の本部がある。横浜に住んでいたころ、深夜1時過ぎからのCNNディウオッチ(テレビ朝日)はほとんど欠かさず見ていた。次々入ってくるアメリカのリアルタイムのニュースに渡米の夢を膨らませていた。あとコカ・コーラの本社があるのもアトランタだ。
アトランタは黒人の割合が高く、ワシントンDCのよう。2連泊することになったYMCAの職員も宿泊客も黒人だらけ。黒人だからと言って、これと言って困ることはないのだが南部なまりには閉口した。コインランドリーの場所を聞いても、答えがよく聞き取れない。「サンキュー」が「ターキー」とさえ聞こえる。渡米後1年近くたっていたのですっかり自信をなくしかけたが、東部や西部のアメリカ人でも聞き取りにくいと聞いて安心した。
アトランタは、地方都市だが飛行機の発着回数も大都市並みに多く、産業が発達している。この辺は、東京一極集中の日本にない力強さなのかもしれない。
暗くなっていたが、コカ・コーラ本社やCNNセンターの下見をしておいた。CNNセンターは単なる放送局ではなく、ショッピングモール、映画館、ホテルが合体した巨大なビルだ。本格的見学は、翌日することにして、YMCAに帰った。
4月14日(木)快晴
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さっそくCNNセンターへ行って、見学ツアー(4ドル)に参加した。東洋人は私だけ。内部はさすがにすごく、コンピューターがオンラインでつながり、ビデオデッキも数え切れないほどある。鉛筆替わりにキーボードをたたいていたり、女性(全体の60%)が生き生きと働いているのがいかにもアメリカらしい。ひとつ気に入らなかったのは、案内係の女性の態度があまりよくなかったこと。
次にコカ・コーラ本社へ行ってみた。しかし、予約のある団体以外は見学できないと断られた。日本からわざわざ本社を見にきたのだと、だだをこねるとシブシブ中へ入れてくれた。
本社はインテリジェントビルでエリート社員がさっそうと歩き、汗くささがない。コカ・コーラの自販機がボタンを押すだけで無料で飲めるのと、トイレが広く清潔だったのが印象的。
街はずれに、ストリップバーがあったので軽い気持ちで入ってみた。入場料2ドルを払うと入り口のおやじが
「ドン・ユー・ハブ・エニ・ウエポンズ(けん銃持ってないだろうな)」
と言いながらボディーチェックをする。バーの中は薄暗く、バーテンもダンサーも客もすべて黒人。有色人種とは言え東洋人は私ひとり。
正直言ってビビッてしまった。ビールを注文したものの店を出るタイミングをさぐるしかない。ステージで踊るダンサーにチップをはずむとその客のテーブルで特別にダンスするシステムだったらしかったが、チップを渡す勇気もなく、早々に店を出た。
夜は再びCNNセンターへ戻り、映画を見ることにした。6種類の映画をやっていたが迷わず、御当地ムービー「風と共に去りぬ」を見ることにした。一番小さな部屋で、一年中上演しているようだった。
職員のユニホームといすは立派だが、スクリーンは小さい。客もまばら。休憩をはさんで4時間弱の大作を英語のみで見るのはかなり疲れる。音楽がとてもよく、クラークゲーブルが格好良い。
リビアン・リー演じるスカーレット・オハラのような生意気な女性が目の前にいたら、はりたおしたくなるだろうと思うようになった。
こうして、メキシコ旅行から続けて大西洋めがけて旅を続けた。あと少しで全米50州すべてに足を踏み入れたことになる。
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EZア・メ・カ
2-13 ミッド・サウスの旅
撮影・著作 マイク・ヨコハマ
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2001.7.29 UP DATE