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スリリングなレースの結末がサクセスストーリィにならないところが映画ではない、現実の世の中の厳しさだと実感した
準優敗退は残念だったが、意外と気分はさばさばとしていた。熊本の失格の時のような精神的ダメージはなかった。もし結果が出せなくてもやるだけのことはやった、という納得できるものが自分の心の中にあったからかも知れない。それでもまだ望みがないという訳ではなかった。
初日が終わった時点で競走得点を計算すると92.77だったが、それがきのうの準優6着の時点では92.70。前期(平成11年(1999)12月〜平成12年(2000)3月)のA級1班の最下位が92.70、前々期は(平成11年8月〜平成11年11月)92.75。その前の期となると93点台が必要だった。だから初日の時点で帰郷していれば、少なくとも前期と前々期の点数には達していたわけで、A級1班が何とか保持できていたかもしれなかった。
しかし、それは結果が出るまで分からないことであって、あくまで他人任せということになる。消極的な考えは自分のスタイルではなかった。きょう最終日の選抜を1着で終了すれば、92.83になる。93点台は無理だが、楽しみはまだ残っていた。私は今期最後の一戦に望みを託し、昨日より少し強めのウォーミングアップを開始した。
選抜は松本聖志(岐阜)のほぼ先行一車だった。あと機動力がある選手は高橋秀一郎(茨城)と佐藤裕之(福島)だったが、いずれも先行タイプではない。バック先頭で通過するのは、やはり松本をおいて他にはいないだろうと思った。その松本の後ろを回るのが勝利に最も近いと思われたが、そこは石川の波能淳が主張してくるハズ。近畿は私の他に地元の八倉伊佐夫、兵庫の金岡泰孝の3人、関東は高橋、大谷、小林、佐藤の4人だった。
A級1班維持には絶対1着が必要条件だった。それも無事故で。私は、今期最後のレースで1着を獲らなければならない自分の運命を、自分でこう評した。(何ともスリリングな話だね。)
スタートは私以上に事故点を嫌った金岡が前に付けた。その後を高橋
- 大谷 - 小林 - 佐藤の関東勢が続き、松本 - 波能 - 鷲田 -
八倉は後方で待機。
高橋は波能と同期なので「競りは避けたい」とのコメントだった。内心、それなら3番手の私と競るより八倉の後ろまで
下げて捲り狙いだろうか、と思っていたが、松本が上昇を開始すると、高橋は金岡を被せて松本後位の波能のインで粘ったではないか。(え?まさか)
高橋は周回中、後続の並びを確認して考えが変わったのだろう。松本相手に捲りは無理、ならば3番手の私と競るより波能と競るのが一番堅い、と。
選手はスタートしてから作戦が定まる場合もある。高橋もそうだったに違いない。私は3番手から4コーナー直線勝負と考えていたが、前が併走となったことで作戦変更を余儀なくされた。絶対1着の条件を手中に収めるには、松本の後位に追い上げる作戦しかない。私はそのタイミングをじっくり待った。併走状態に追い上げるタイミングは難しい。早ければ先行選手も流すし、遅ければ抜けない。
そして私は松本が加速しそうなホームストレッチ付近からダッシュした。松本も踏み込んだ。波能を被せ、後はインの高橋を競り落とすだけ。高橋は少し遅れていたが、車を併せてきた。
最終2コーナー、ここで負けたら万事休す。私は軽く押し込んだ(つもり)。高橋はそれで遅れ、2コーナー出口では私の車が前に出た。こうなれば松本とのマッチレース。
最終4コーナー、私は必死の追い込みで、松本を交わした。スリリングなレースは終わった。これで92.83。後は運を天に任すだけかに思えた。
私はほとばしる汗を拭いながら、レース後、1着者の慣習となっているドリンク(ポカリスエット)を対戦相手に配った。
クールダウンを終え、控え室に戻って仲の良い八倉選手に声を掛けた。「八倉君どうだった?」との問いに「4コーナーでコースを間違えました」と残念がった後「鷲田さん、走注が付いたそうですが…」と心配顔。
「え?」私はとっさに(まさか2コーナーのあれが?)と顔色が変わった。
すぐさま確認の再生ビデオを視せてもらうため選手管理課へ行った。今期はこの確認が多かった。
判定が出てしまってからああのこうのと詰め寄っても仕方がないが、一応の不満内容だけは伝えた。相撲の取り組みのように「物言い」で判定がくつがえるなら1時間でも2時間でも粘るが、競輪の判定はそんな訳にはいかない。
今期(2000年7月終了)92.63で終了…。
私は言いようのない虚脱感を感じながら向日町競輪場を後にした。そして、スリリングなレースの結末がサクセスストーリィにならないところが映画ではない、現実の世の中の厳しさだと実感するのだった。
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